ベトナム浪漫紀行

ベトナム観光情報

作者別: fallin84love

ディエンビエンフー

ムオンライ南部の道路には、ところどころに裂け目があります。 国道6号線で南東からトゥアンジャオへ行く方法がソンラ省までの一番の近道となります。国道12号線は100km(車で約3、4時間)以上あり、トラックでここを移動する際は、最初のうちは穏やかですが、50km地点にさしかかるとかなりのスピードでディエンビエンフーのハート型をした谷まで駆け抜けます。ここはフランス領インドシナとしての終わりを決定づける戦いに、ヴォー・グエン・ザップ氏が勝利した場所です。ここを訪れる観光客はフランスの歴史好きである人が少なからずおり、ディエン・ビエン・フー は地域の少数民族村に出かけるスタート地点として観光客が増加しています。谷の人口比率は、都会の周辺に密集しているベトミン族をしのぎ圧倒的にタイ族(53%)が占めています。近年、海外からの観光客に国境を開放したこともあり、ラオスへの入り口としても利用されるようになっています。

町の南部に向かうと、右側には道路から少しはみ出た博物館があります。第二次世界大戦で使用されたアメリカ産拳銃が、フランス軍に発見され持って帰った兵器などの展示が行われています。ベトミン族の銃を横目に見ながら道を通り過ぎると、先ほどの拳銃より新しいものが展示されているのが目に入ります。韓国戦争の舞台となった丘周辺の戦地から掘り起こされた戦利品です。展示物の写真には、有名な戦争で焼かれた谷の様子や、動画では取り返しのつかない被害を被ったことが描写されており、戦争を風化させないための展示品として、より記憶に残るものになっています。動画や写真から伝わる悲惨さや私たちへのメッセージは、ベトナム人にも明確に伝わりやすく工夫されています。メインミュージアム左側の小さな部屋では、現地の少数民族の衣装が展示されています。

ミュージアムの真向かいには、赤と金の星マークがついている大理石があります。戦争中に倒れた数人の英雄の大理石墓地とされています。1993年には日越外交関係40周年記念として、威厳のある出で立ちの宮殿の入り口や、英雄たちの名前が掘られた大理石の壁が作られました。壁の外側には、戦争の簡単な描写が描かれています。

共同墓地を見下ろす小さな丘はベトナム人にA1ヒルと呼ばれており、フランス防衛軍との戦争終結に至るまで、戦争が長続きし両国が苦戦を強いられた場所でした。丘の頂上では、再建された地下壕や、フランス軍への対抗に人生を捧げた英雄 ベトミンの墓地を含め、様々な碑を見て回ることができます。また、現在は穏やかな耕作地の谷を見渡すこともできます。

当時ここを支配していたフランス軍にもA1ヒルとして知られていたこの場所は、フランス軍とベトナム人民軍がディエン・ビエン・フーの戦いにおいて争った場所です。

この戦争で犠牲になったベトナム人の墓地がこの地域の小さな丘にあります。

ド・カストリー大佐の司令所跡は当時のフランス軍大佐 ド・カストリーが作りました。その司令所は現在復元作業が行われています。現在も戦争の跡地として保存されていますが、あまり見て回るものはありません。ディエン・ビエン・フー 中心地から数キロ離れた場所に位置し、近辺にある川の周辺では砂埃が舞っており、空中爆弾などの兵器が、周囲の平地で朽ち果てた姿で横たわっています。ここに来る人は、必ず”フランスのために亡くなった人々”と刻まれた記念碑へと足を運ぶでしょう。

ベトナム北部

ベトナムは中国とラオスの国境にありハノイの上部位置しており、最大の広さを誇ります。紅河デルタの周辺には緩衝地帯が広がっており、周辺地域の多くが交通の便が整っておらずアクセスが困難です。少数民族が存在しており人口はまだらで、観光客に最も人気の場所は紅河の谷から突き出るファンシーパン山というベトナムで最も高い山となっています。以前のフレンチヒルステーションから簡単にアクセスができ、ファンシパン山の近くにはサパという少数民族や見事な景色を眺めながら小集落へのトレッキングができることで有名な場所があります。紅河の反対側、車で数時間のところにあるバック・ハは花モン族の中で最も個性的なグループの1つです。これら二つの観光地と戦争の地であるディエンビエンフーは、1954年にフランス軍に勝利の決め手となった場所で、ソンラ省やモクチャウ、マイチャウを通り景色を眺めながらハノイに戻る余裕のある観光客が訪れる場所です。

紅河の谷の東側の州は特にハザン省とカオバン省の国境にある息をのむほどの景色があり、訪れる価値のある場所です。北東地域は通り抜けられないジャングルと森林で覆われた石灰石でできた絶壁があるベトナム最大の湖バベ国際公園が有名です。北部の山々は観光施設も少なく、交通機関が整備されていません。しかし、この地域はハノイの旅行代理店が新しいツアーを企画しており、一人旅をする人たちがジープやバイクで地図に載っていない場所へ向かいますので、観光客にかなり人気になってきています。

How to get to ba be? (and sapa)
https://www.tripadvisor.com/ShowTopic-g293924-i8595-k5403377-How_to_get_to_ba_be_and_sapa-Hanoi.html

北勢地域を交通機関や自動車で観光するには6日は必要となります。北西地域全体を観光するには、ハザン省を含め最低でも6日間必要ですが、バベ湖にもっと滞在しパクボ洞窟かコアバンの近くにあるバンジオック滝に行きたいなら、北西や東北を組み合わせて2週間の旅に出かけてみましょう。きっと忘れられない思い出になります。ただし、このエリアの雨季の道中は危険であることを心に留めておきましょう。旅行日程を柔軟に考えておくことが大切です。あまり時間がなければ、公共交通機関やタクシーなどを使って、ハノイでサパ、ヤマイチョウ、バベ国立公園で2、3日過ごしましょう。もう一つ限られた時間を有効に過ごす方法は、ハノイの代理店のツアーに参加することです。

1920年代にフランスによってサパでヒルステーションができた以前の歴史記録は、ほとんど記録に残っていません。フランス軍の滞在期間さえも簡潔に記録されているだけです。人里離れた植林が集まった場所は、ベトナム独立運動の計画に最適な場所だったのです。1941年の短期間で、ベトミン氏による1945年の8月革命を受け、ホーチミン氏は中国の国境 パクボ洞窟で身を潜め、その後南下しトゥエンクアン省に移動しました。これら北部の省は、フランス軍の支配から最初に解放されましたが、北西地方の少数グループ タイ族、モン族、ムオン族が植民地を支配していた権威者を支援しました。ベトミン氏がこの地域の実権を握るのには1952年までかかりました。その2年後、ラオスとの国境に近いディエンビエンフーでフランス軍に圧勝しました。

1970年代後半の中華人民共和国とベトナム共和主義共和国との関係は、特にベトナム軍によるカンボジアへの侵攻で更に悪化していきました。1979年2月17日 中国軍が20万人もの軍隊をベトナム北部に派遣したことでついに戦争が起き、国境の町が壊滅されました。しかし、中国軍は200人足らずで帰還したのです。交通機関や政治的にダメージを受け、その後街は戦争後に復興しましたが、国境沿い1000kmには未だ発見されていない地雷が存在し、厄介な問題となっています。観光客が訪れる場所を含め、ほとんどの地域に安全宣言が出されましたが、人里離れた地域ではよく利用される道を通る方が賢明です。

ホイアン

伝統的な雰囲気に包まれ、観光地が密集した小さな都市 ホイアンはベトナム中のどの観光地よりも必要不可欠なものとなっています。狭い道には、苔で覆われた屋根の木造建てのお店が軒を連ね、特産品が多く並んでいます。都市の古くからの魅力が自然と保たれており、例えば、ベトナムの中でバイク運転の制限があるのはここホイアンだけで、規則として正面玄関に提灯をぶら下げるなど、地域に特化したビジネスを押しているのもここだけです。何百もの明かりが川のほとりや狭い谷から見え、トゥボン川の水に反射し光っています。また、都市の洋服屋は安価な値段で服を販売しており、アジアのトップグルメでは常に上位にランキングされていることも特徴です。

ホイアンの人気レストラン
https://www.tripadvisor.com/Restaurants-g298082-Hoi_An_Quang_Nam_Province.html

ホイアンの古代のルーツは16世紀の中国、日本、ベトナム、ヨーロッパの豪華な建築様式の融合が元になっています。全盛期には、チャボン川のほとりは商人が乗る船でいっぱいで、世界でもっとも商業が盛んな場所として有名でした。この長閑な街には、未だにその色褪せない雰囲気が残っています。

市内で最も写真撮影される光景は、間違いなく美しい来遠橋/日本橋ですが、町で最も注目すべき記念碑は、ホイアンの中国人在住者に関連しています。まず、200年経つ商人の家が現存し、今も成功した中国商人の子孫が住んでいます。ガラスの天井屋根や中国風の会館が 日常生活にあちこち存在します。現在、中国人はホイアンの人口約4分の1を占めています。

1999年にユネスコの世界遺産に認定されたホイアンは、今や多くの観光客が訪れる場所となっています。一部は観光地化されすぎていますが、服屋やアートギャラリーが多く、急激に宿泊者が増加していることを受けホテルの建設が急ピッチで進んでいます。ミーソン地域にあるチャム族の跡地で時間を取り、気軽に日帰り旅行を楽しむことも可能です。周囲を散策してみたり、トゥボン川をボートで下りのんびりとサンパンに乗ることも可能です。もし可能であれば、毎月太陽暦の14日目に開催されるフルムーンフェスティバルと掛け合わせてみましょう。他と違うところは毎年10月に起こる洪水で、足が浸かるほどになりますので、その時期には雨靴を履いていくと観光をより楽しむことができます。

何世紀にもわたって、ホイアンは東南アジアの海上貿易において重要な役割を果たしました。少なくとも紀元前2世紀に遡り、サフィンと呼ばれる文化の人々が中国とインドの商品を交換していましたが、16世紀に中国や日本、ヨーロッパの船が港に集結し貿易ブームを巻き起こし、世界中から商人が集まる年に一度のスプリングフェアが開催されたフェイフォという港(ファイフォスプリングフェアの記事をご覧ください)が状況を一変しました。17世紀終わりの全盛期には、役人が王朝の資金を徴収しようと港に降り立ち、街は職人、金融業者、役人で埋め尽くされました。

貿易活動は日本と中国の商人で回っており、その多くは各国の政府がビジネス、規則や文化的個性を統括しているフェイフォに居住しました。1639年には、日本の将軍が海外旅行を禁止し、”日本通り”や独自の建築様式の数も減少しました。当然ながら、中国の政治改革で町の”自治体”は、会議場や崇拝の場の設置が行われました。

18世紀後半には、泥土がトゥボン川を塞ぎ始め、その影響で市場が中国でも開催されるようになり、それから港の貿易活動は減少していきました。フランス軍がファイフォに議事堂を建設し、トゥーラン(ダナン)から列車が開通されたため、以前の貿易経済を復活させられませんでした。町は、1954年にホイアンへと名前を変更し、何とかフランスやアメリカとの戦争の火から被害を免れ、現在でもその時代の雰囲気が残っています。

ベトナム中部

小規模のこの国には、驚くほどコンパクトに観光地が密集しています。南部から来た観光客が最初にたどり着くのは、ホイアンでしょう。伝統的な素晴らしい建築物があり、その陽気な雰囲気とグルメが人気です。北部に足を伸ばすと、そこにはダナンがあり、バーやレストラン、洗練された新しい建築物が印象的となっています。都市の裕福さを前面にアピールしています。次に、かつてはグエン王朝の首都があったフエがあります。伝統的な王朝都市には宮殿の建築物や手入れが行き届いている中庭があり、まるで昔にタイムスリップしたかのようです。最後に非武装地帯(DMZ)として有名なベトナム戦争の跡地があります。現在物議を醸している北と南ベトナムを分割する場所がここにあります。

天候、料理、言語、さらには非武装地帯(DMZ)をまたぐベンハイ川の北側と南側の地域の特性の違いに気づくと思います。ベトナムはずっとこの地点で分けられていたわけではありません。最近は中国支配下の政治と文化の中心地域からドンコイの北側 ホアンソン山と、インド化されたチャンパ王国から南が国境でした。ベトナム独立国は17世紀に勢力を伸ばしたため、ベトナム軍は周辺にある国境に向けて南下しました。フエの近くにあるハイヴァン峠です。ここでもまたミーソン聖域での寺が制圧され王国が開かれた15世紀まで、チャム族が他国の侵攻を阻止していました。

それから、陳王朝と阮朝同士はこの同じ土地を巡り再び争い合ったのです。ライバル関係がついに爆発したのは19世紀にフエが国の都市になった時でした。阮朝はフエを帝国都市とし、そこに宮殿や寺、霊廟を建てたにも関わらず、戦争に苦闘しましたが、現在はベトナムの重要な観光地となっています。1954年にはベトナムは北緯17度線で分けられ、1975年の南北国境再統一までベンハイ川や非武装地帯(DMZ)がベトナムの国境となっていました。現在はあまり観光地としてオススメの場所ではありませんが、非武装地帯(DMZ)の荒れ果てた戦地は戦争で戦ったどちらの国軍兵士、また二国間の衝突で亡くなった市民にとっても辛い思いが残る記念碑となっています。

ダナン近くのチャイナビーチは、ベトナム戦争当時を思い出させる名前ですが、観光地はこれだけではありません。ホイアンの小さな川沿いの街は伝統色が強く、木造建築職人で活気に満ちたホイアンは特に素晴らしいのです。ホイアンから内陸側は他の地域へ向かう途中の町で、現在も巨大な建築計画が話題になっている最中、昔ながらのビーチが残っています。チャム族のスピリチュアル精神が活きるミーソン聖域は、草が生い茂る緑豊かな谷にあります。

この地域は北から南まで伝統的に天候が不安定で、一般的にはダナンやフエ周辺では9月から2月まで続く雨季には道路が分断されることも珍しくありません。フエは特に酷く、都市の年間降水量3メートルを考えると3月から8月までの乾季でも、豪雨に見舞われる日が数日あります。南部へ訪れるベストシーズンは2月から3月末の春で、気温と蒸し暑さが夏の最高記録(30度近く)に到達する前か、雨季直前の夏の終わりの時期でしょう。

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