フエの街と就職事情

未だに王朝時代の装備品がたくさん存在しますが、フエはベトナムで最も魅力的な都市の一つです。少なからず1802年から1945年までの国家首都としてのステータスのおかげもあり、歴史や料理巡りなど独特の体験を前面に押し出しています。グエン朝はもう存在しませんが、フエは威厳のある雰囲気が漂っています。ベトナムの中ではフエの人々はやや教養があると考えられており、未だに詩人や芸術家、学者や知識人を輩出している都市で、他よりこの地域には若者がかなり多く集まっています。

徐々にその観光地としての人気を取り戻しつつあるフエは、数日あれば難なくその歴史的背景を学ぶことができます。フエは3つの地域に分けられ、それぞれが個性的な特徴を持っています。19世紀にフォン川北部のほとりに要塞や、一時期は宮殿やそれぞれの居住区の区切りをつける格子を作っていました。ドンバ運河からフーカットまで地元フエの25%の人がボートで入港するため、ショッピング地区や中国の議事堂、パゴダス寺院のある地区は人で混雑します。かつてヨーロッパ都市と呼ばれ、南香江のほとりとヒューカム運河の間にあるデルタは、現在フエの行政の中心地となっており、ほとんどのホテルや観光サービスがそこにあります。

松の木がたくさんある南部には、グエン王が作った壮大な王の霊廟があります。曲がりくねった道は最終的に香江に集まっており、ティエンムー寺という7階建ての塔もあります。時間があれば、トゥアンビーチまでサイクリングして楽しい時間を過ごしてください。フエは軍事境界線(DMZ)のツアーの出発地でもあります。

フエは必然的にベトナムの有名な観光地になると期待されています。宿泊施設の種類とそのレベルや、有名なご当地フードを提供するレストランの接客水準も、平均より高いです。それにもかかわらず、観光客の多くはかなり早い段階でフエから他のエリアに移動しており、その理由は価格の高さや、不安定な天候にあります。ベトナムで最も降水確率が高いフエは、毎年10月から12月まで数日に渡り洪水が起こり街は大混乱です。

現在フエがある場所は、1306年までチャンパ王国に属していた地域で、その一部の現在のダナン北部が平和条約の下でベトナムの王女に譲渡されました。最初にこの地域に定住したベトナム人が、ホアチャン(現在のフエ)と呼ばれる場所の近くに行政の中心地を築き、1558年にグレン王がベトナム南部を支配しました。その後200年続く王朝です。17世紀後半に、グエン王は現在は主要な街であり文化の中心地である場所(フースアン)に要塞を移したあと、その地域はタイソン王クァンチュンの下で都市となりました。

しかし、本当にフエを有名にさせたのはベトナムの次の王、グレン王朝を創設したザーロン帝でした。1802年から、首都をタンロン(ハノイ)から王朝によって改名された都市フエに移し国を統治しようとしていました。ザーロン帝はフランス軍から受けた支援で借りがありましたが、彼の帝国都市は中国的な考えを持っており、他国にはオープンではなく閉鎖的国家であったのです。独自の地区と管理制度が存在しました。

グエン王は儒教者で保守的な統治者であり、フランス軍に反抗まではできないものの西欧人に疑いの目を向けていました。1884年にフランス軍が北西のフエの存在を聞き入れ、名ばかりの統治者を抑え1885年に支配しました。グエン王朝の元でフエは芸術、学問、仏教学の有名な中心地になっていましたが、過剰な建築計画と贅沢なライフスタイルが税金にしわ寄せをかけていました。フエはバオダイ王が1945年に王位を破棄したと同時にベトナムの都市ではなくなりました。その2年後、大火事が寺や宮殿を消失させてしまったのです。19世紀初期には社会的・政治的不満が爆発し、反植民地派のエリートが率いるデモ運動が街を陥落させてしまったのでした。1960年代から人々に不満が溜まっていたのです。1963年にその緊張がついに爆発し、ゴ・ディン・ジエム首相が導入したカトリック制度に猛反発した何百人もの仏教主義者が軍隊と衝突しました。

政府軍がその年の終わりに仏教デモ運動集団に反対し仏教の聖職者と運動に関与したと思われる活動家の検挙に乗り出しましたが、これが引き金となり、修道士や修道女による焼身自殺にまで事態をエスカレートさせました。

1968 テト攻勢により北ベトナム軍 (nva) 25日間の都市を支配し、フエは分断されました。共産主義者たちは131日未明にフエに侵入し、城砦の上に旗を掲げ、瞬く間に都市全体と居住地を支配しました。帳簿リストを利用し政府職員、学者、司教、アメリカ人、外国人支援労働者の支援者を探し始めました。300人近くが後に銃で撃たれ亡くなったり生き埋めにされました。しかしこれだけでは終わらなかったのです。それから引き続き起こった500人の北ベトナム人への暴行、その後の衝突でベトコンにいた384人の南ベトナム兵隊と142人のアメリカ人兵隊が亡くなり、少なくとも100人の市民も命を落としました。フエはアメリカ(NVA)軍の攻撃により要塞が陥落し、ジャーナリストのスタンリー・カーノウ氏がこの戦争を”最も悲痛な戦い”と呼んだように、侵略から10日後まで共産主義者は家から家を探し回ら流アメリカ軍に追いやられていました。その7年後の1975年3月26日、アメリカ軍はフエを最初の主要な街として解放を行いました。

フエ再建という大きなタスクは、20年以上にわたって現在も行われていますが、ユネスコ世界遺産リストとして上がった際には宮殿を改装し文化芸術と技術スキルの復活まで幅広い計画のために様々な国から資金を募りました。

フエは観光地なので就職先を探すことは難しく、車で1時間ほど離れたダナンで探すことが望ましいです。

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中部山岳地帯

ベトナムで大雑把なトラック運転を避けたい場合には最適な場所です。多くの旅行者は、東海岸に沿って旅行をし、ビーチや山が好きな人は、観光スポットを求めより広大な北部に向かいます。中心の山岳地帯は北部の山々の綺麗な景観に溶け込んでおらず、山のいくつかは枯れきっていますが見るものはこれだけではありません。壮大な滝や霧で覆われた山、広範囲にわたる集団居住地があり、カンボジア西部の国境に向かうと、高くそびえ立つ山々や高原が広がっています。アンナン山脈や国道一号線の中心からハノイと北部に向かい細く伸びるダナンまで広がる中心部の高山があります。この地域の栄養豊富な土壌がコーヒーやお茶、ゴム、絹や広葉樹など自然の資源を生み出しています。

全ての高山がそうではありませんが、経済計画で植地用の場所とされている場所もあります。サイゴンの怠けた大富豪やフエの貴族狩りが行われた中で、原生林には生き残ったゾウや熊、テナガザルなどの野生動物が生存しています。

多くの登山者や観光客の主な目的はダラットに向かうことで、その途中で見えるかつてのフランス領の山は遠目から見ると霧がかっておりかなりロマンチックに見えます。都市そのものは心地よい気候で、見るだけでも楽しめる植民地時代の建造物や、写真映えするバイク、フルーツと野菜が山積みになった市場など魅力にあふれた地域です。

ダラットから北に向かい、少数民族村を囲む透き通るような水が、美しいダクラク省まで続きます。そのあとは広大でひらけた景色よりも、観光地に人気がある高山の街が連なります。最初に見えるのはバンメトートという街で、その広い土地を考えると驚くほど混雑する場所です。都市そのものはあまり観光するところではありませんが、周囲にある少数民族村は見応えがあります。緑道国立公園への入り口でもあります。

ブレイク空港から北部は観光地としては適していませんが、魅力的なジャライ族とバナール族のような少数民族村が存在します。さらに北上するとコントゥム省が見えます。3州の首都の中で最もずば抜けて魅力的でリラックスした雰囲気がある場所です。中心都市から3つのバナール村に向けて夕方に散歩に出かけたり、かなり距離はありますが、他のいくつかの少数民族を渡り歩くこともできます。

ジャライ族とバナール族の居住する場所は、少数民族の住む高山が多く集まる場所です。

俗世から切り離された高山の住人が印象的で、現地で作られるボンボン帽子、スカーフ、羊毛のジャンパーは保温性に非常に優れており、その地域での旅行ではこの村の観光は確かに記憶に残るものとなります。しかし、多くの民族がハノイとの合併により、村の個性を保つことに苦戦しています。各国の政府や人権グループ(再統一についての記事をご覧ください)からの批判が21世紀の変わり目から出ており、政府の民俗村とハノイとの合併には批難が集中しています。少数派の権利問題についてには敏感で、ベトナム政権は1993年にこの地域のみで外国人を受け入れました。私たちが主要都市を自由に旅行している間にも高山にある少数民族村への旅行が難しくなる可能性があります。ほとんどの場合、民族村へは地域の観光局を通す必要があります。(気前よくお支払いを)どの地域でも現在の規制、特に村での宿泊については今一度確認を行ったほうが良いでしょう。

高山での体験はいつ訪れるかによってかなり変わります。11月から4月までは乾季です。このときは豪雨が中心部から離れた村にアクセスできなくなるほど降る時期ですが、最も雰囲気が良い時期である湿度の高い5月から10月に行くと良いでしょう。

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バンメトートの街と就職事情

バンメトートはダクラク省の首都で、人口30万人の街です。都市自体はそれほど見て回る場所はなく、急激な都市開発によりスプロール現象(都心部から郊外へ無秩序、無計画に開発が拡散していく現象のこと)が発生しました。その結果、町中に現代的な建物が並んでいます。ジープ(四輪駆動の自転車)や、レズアンの戦勝記念塔は街に広がる道路の終着地となっています。高級車がクラクションを鳴らし走行していることからも分かる通り、経済的に裕福な街です。しかし、このように都市改革の影響を受けているバンメトートであっても、ここではコーヒーとゴムの生産が盛んに行われていますが、日本人が就職できそうな場所はありません。また改革の波が他の地域から押し寄せてきた影響で、改革は都市の外側から中心に向かって行われており、いまだに驚くほど汚れている場所があります。バンメトートの居住地は少数民族村の郊外に位置しています。北部郊外の街 アコドン村(現在も高床式ロングハウスに暮らすエデ族が居住する村)に古くから存在する少数派民族のコミュニティ(ほとんどがエデ族)やヨックドン国立公園(カンボジアとの国境近くにあるモンドルキリ保全林と接する公園)の近くにあるバンドンの田舎街、滝などがあります。都市の人口の4分の1が、これらの高地に住んでいるエデ族やベト族で占めています。

4月から7月の間は、レモン色の蝶々が花びらのようにふわふわと飛んでいるところを見ることができます。

フランス植民地時代、街は栄養が豊富に含まれた赤土で栽培されるコーヒー、紅茶、ゴム、硬材の販売で繁栄し、周囲の村々で行われている植林活動の中心地でもありました。植林のオーナーや植民地支配人は、象やヒョウ、トラの狙い撃ちを娯楽としていました。数年後、アメリカ軍がフランス軍のベトナム支配を引き継ぎましたが、その時には、すでにベトナム軍が侵攻したあとでした。バンメトートをホーチミン運動の最初の「ドミノ(植民地)」として陥落させたのです。

プレイクも同様に観光する場所はあまりありませんが、戦時中はベトナム軍によりアメリカの空爆キャンプハロウェイが攻撃され、ベトナム戦争の引き金になったプレイク事件で有名な場所です。過去に数回、反政府運動の中心地として利用されました。現在は遠く離れた場所特有の陽気な雰囲気に包まれていますが、1975年に南ベトナム軍によって攻撃にさらされ壊滅的な被害がでました。敵軍の攻撃が終了すると、都市は早急な復興作業が必要になる程何もかもが破壊され、その後にソビエト連邦の支援により復興が急ピッチで進められました。1980年代の復興活動では都市開発が進んだことや、中心部の高山地帯からのアクセスの便利さを考えると、プレイクへの滞在を考える人も多いでしょう。周囲にある少数民族村への見学には、ガイドの付き添いが必要になりますが、そのアクセスの近さからプレイク自体も便利な場所として観光客に利用されています。ガイドや公的機関(政府)の付き添いなしで少数民族村を探検したい場合は、1時間ほどかけて50km北に向かえば、コントゥム省という場所があります。そこでは、観光に関しての規制がなく、ガイドなどの付き添いなしで観光が可能です。

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ダラットとその周辺

ダタンラの滝は、地域で最も印象的なものの一つであり、簡単に近くの湖トルエンタムへの観光と組み合わせることができます。コホ族では、ダタンラは、葉の下の水を意味し、この場所を象徴させる言葉となっています。15分ほど生い茂る森林を探検しながら滝の傾斜を下ります。滝自体はスリリングではありません,。泥が混じった水が木造の歩道橋へ流れ落ちる様はあまり写真映えしません。もっとも有名なプレン滝は街から6km離れた所にあり、地域の人たちにかなり人気ですが、あまりお勧めできません。熊やシカ、猿を含む動物が劣悪な環境で飼育されているからです。

チキンビレッジは、他のベトナムの村と同様、喧騒から離れた長閑な雰囲気で、村の中心には誇らしげな5m強の鶏の像が建てられています。織物を買う買わないは関係なく、女性たちが自身の体に紐を固定して機織り機を使い織物を織るところを見学するのも面白いでしょう。許可なしで小さな丘や平原に立ち入ることも可能です。

チャイマット村の近辺は、ダラットからわずか7kmで、小旅行をするには最適な場所です。多くの人は電車でチャイマット村まで向かいます。東側に目を向けると少し面白く、素敵な村があります。村そのものは探検するところが沢山あり、リン・フュオック寺が主な見どころですが、もし時間があれば(または現地のバイクタクシーに乗りたかったら)、事前に食べるものを買い、村のちょうど東にある美しいカオダイ教寺院総本山を探検してください。

チャイマット村で印象的なのは、霊福寺で、モザイク模様の芸術品が陳列されており、細部の装飾にこだわった建築物です。それゆえ、割れた骨董品やグラスの破片には細心の注意を払いセメント加工されています。最初に目に入るのが中央の建物にある中庭の大きな竜です。2万点以上のビールボトルのかけらで造られています。寺の中にある芸術品はさらに手が込んで造られています。色とりどりに並べられたギャラリー、神社と景観の良い場所に向かい左側の階段を登ると、ホールの支柱にはモザイク柄の竜たちが絡み合っています。信仰者により鐘が鳴らされ、深い音がメインホールの雰囲気を一層引き立たせます。

不安定なジグザグの山道の終点に位置しているタイガーフォールズは、この地域で最も人気があるスポットです。滝へと繋がる険しいコンクリートの階段は急な崖になっており、写真スポットとなっています。タイガーフォールズは、ベトナム国民にとっても非常に人気な観光地となっており、静かに1人で回ることは難しいでしょう。滝の底にある大きな岩と水の溜まり場はピクニックに最適の場所です。レストランのそばには巨大な原始狩人と虎の像があり、記念写真を取る為に吠える虎の像の口に登ることができます。

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ダラットの街と就職事情

ベトナムで人気の避暑地、ダラットは、高度約1500mにあるランビアン山の激しく曲がりくねった山々の中にあります。その婉曲した道、絵のように美しい教会、豊作の野菜農園や大きな滝、風変わりで面白い植民地の骨董品など様々なものが混在しているダラットはゆっくりするのにぴったりの場所です。旅行で訪れると、ハノイやホーチミンほどに賑やさはなく、涼しい気候なので働いてみたくなるのですが、日本人向けの観光地ではないこともあり日本人が働くとなると難しいです。日本の大手商社などが農業関連の会社を作って進出しているものの、求人がありません。

ベトナム戦争中の暗黙の合意によって、ハノイとサイゴンは、都市の爆撃を受けず半世紀ほど前の景観がそのまま残っています。しかし、ダラットにはあまり期待し過ぎすに訪れる方が良いでしょう。人口約20万人で、ひっそりとした避暑地だからです。1950 年代にはじめてダラットの建築物を見たノーマンルイス氏は、ベトナムで最も「くすんだ小さなリゾート地」を見つけたと言ったそうです。現在は植民地の名残があり、東ヨーロッパ建築が軒を連ね、パゴダ寺院がある場所です。特に国内の観光客が好む白鳥の形をしたペダルボートやカウボーイの格好をした乗馬ガイド付き添いのアクティビティを全面に推しています。

三日月型をしたダラットの中心部は、霊福寺の西側周辺に位置しています。1919年にこの地域にあるカムライ川はグランドラック(素晴らしい川)と名付けたフランス軍によりせき止められました。爆撃を逃れ、曲がった道や階段、石でできた建築物など、フランスの影響を受けた建築物が未だ残っており、赤い屋根瓦の建物がハイバーチュンやファン・チュー・チンと言われる街の間の小丘を覆うほどの軒を連ねています。

ダラット周辺の壮大な風景は、トレッキング、バイクでのドライビング、その他のアクティビティの挑戦にぴったりです。

12 月から5 月の間は現地にあまり見所はなく、地域の湖でボートに乗ったりカヤックのレンタルができるトゥヤンラム湖までケーブルカーに乗るなどして楽しむことができます。もう一つ人気のアクティビティは電車でチャイマット村へ行き、霊福寺の装飾品を見て楽しむことです。

タランティンイエウ、または愛の谷と呼ばれるこの谷は、ダラットの5キロ北に位置しています。バオダイと宮廷の仕え人が行った1972年のダム計画で、水が噴出し谷が浸水してできたのがダティエン湖です。派手なレンタルバイクが走行し屋台が多く立ち並んでおり、谷からは未だに水が湧いています。樹木で生い茂っている愛の谷はかなり見応えがあります。湖周辺でカウボーイ付きのポニー乗馬体験ができるなど、観光客の興味を引くものもあります。

愛の谷の周辺にいるなら、歴史関連の場所より観光地に立ち寄ることをおすすめします。ここではいくつか伝統的な家屋が建てられるまでのプロセスと、絹の刺繍の展示がされています。女性たちが真剣な眼差しで仕上げる代表的な刺繍をじっくりと見ることができます。くぐり抜けるように進むと、静物画、美しい織物や景色画の展示があり、その素晴らしさに目を奪われるでしょう。

瓦付き屋根の高床式の家周辺(ラト村)は、現地の人々で混雑していますが、ダラットの業者にツアーを申し込むことができます。コホーというグループの中でも、ラト族と呼ばれる人々は、耕した米や豆類、野菜類を耕し生計を立てています。村の作りはシンプルですので、ガイドは必須ではありません。

バイクを借り1日出かける場合は、滝のあるラト村とその道沿いにあるアンクロエット湖をめぐることができます。乾季の間、滝水は干上がっていますが、そのエリア周辺はより一目につくところにあり魅力的です。

ラト村の山からランビアン山の標高2169kmの頂点が見えます。徒歩で4時間下ったところにあり、車で入れるのは下部にあるヤシの木の入り口までとなっています。感性豊かな人々は山の形を力説しますが、それにはこのような話があるからです。不運な二人の話の言い伝えで、ランと呼ばれるラト族出身の男性とビアンと呼ばれるチル族出身の女性のカップルが部族の敵対関係により結婚できずにいました。悲嘆にくれたビアンはその後亡くなり、ランビアン山の形は彼女の息を引き取る直前の胸を象徴していると言われています。彼女の死後、罪悪感に苛まれた父親が、全ての対立していた部族グループをコホ族として統一することで部族のいがみ合いをなくそうと動き出しました。

ダラット湖から国道20号線を南下すると、右側にロビンヒルの頂上へと続く交通道路の入り口が見えます。ここはケーブルカーの到着地点でもあります。現在は建設中で景観が損なわれていますが、都市近くで斜面を走りながら素晴らしい景色を眺められます。静かで綺麗な水が広がっているトゥヤンラム湖でボート乗船するのには、体験料が必要です。現地のタクシーサービスではよくこちらに連れてこられることがありますが、ご自身のドライブで滝にたどり着くことも可能です。

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ベトナム北部

ベトナムは中国とラオスの国境にありハノイの上部位置しており、最大の広さを誇ります。紅河デルタの周辺には緩衝地帯が広がっており、周辺地域の多くが交通の便が整っておらずアクセスが困難です。少数民族が存在しており人口はまだらで、観光客に最も人気の場所は紅河の谷から突き出るファンシーパン山というベトナムで最も高い山となっています。以前のフレンチヒルステーションから簡単にアクセスができ、ファンシパン山の近くにはサパという少数民族や見事な景色を眺めながら小集落へのトレッキングができることで有名な場所があります。紅河の反対側、車で数時間のところにあるバック・ハは花モン族の中で最も個性的なグループの1つです。これら二つの観光地と戦争の地であるディエンビエンフーは、1954年にフランス軍に勝利の決め手となった場所で、ソンラ省やモクチャウ、マイチャウを通り景色を眺めながらハノイに戻る余裕のある観光客が訪れる場所です。

紅河の谷の東側の州は特にハザン省とカオバン省の国境にある息をのむほどの景色があり、訪れる価値のある場所です。北東地域は通り抜けられないジャングルと森林で覆われた石灰石でできた絶壁があるベトナム最大の湖バベ国際公園が有名です。北部の山々は観光施設も少なく、交通機関が整備されていません。しかし、この地域はハノイの旅行代理店が新しいツアーを企画しており、一人旅をする人たちがジープやバイクで地図に載っていない場所へ向かいますので、観光客にかなり人気になってきています。

How to get to ba be? (and sapa)
https://www.tripadvisor.com/ShowTopic-g293924-i8595-k5403377-How_to_get_to_ba_be_and_sapa-Hanoi.html

北勢地域を交通機関や自動車で観光するには6日は必要となります。北西地域全体を観光するには、ハザン省を含め最低でも6日間必要ですが、バベ湖にもっと滞在しパクボ洞窟かコアバンの近くにあるバンジオック滝に行きたいなら、北西や東北を組み合わせて2週間の旅に出かけてみましょう。きっと忘れられない思い出になります。ただし、このエリアの雨季の道中は危険であることを心に留めておきましょう。旅行日程を柔軟に考えておくことが大切です。あまり時間がなければ、公共交通機関やタクシーなどを使って、ハノイでサパ、ヤマイチョウ、バベ国立公園で2、3日過ごしましょう。もう一つ限られた時間を有効に過ごす方法は、ハノイの代理店のツアーに参加することです。

1920年代にフランスによってサパでヒルステーションができた以前の歴史記録は、ほとんど記録に残っていません。フランス軍の滞在期間さえも簡潔に記録されているだけです。人里離れた植林が集まった場所は、ベトナム独立運動の計画に最適な場所だったのです。1941年の短期間で、ベトミン氏による1945年の8月革命を受け、ホーチミン氏は中国の国境 パクボ洞窟で身を潜め、その後南下しトゥエンクアン省に移動しました。これら北部の省は、フランス軍の支配から最初に解放されましたが、北西地方の少数グループ タイ族、モン族、ムオン族が植民地を支配していた権威者を支援しました。ベトミン氏がこの地域の実権を握るのには1952年までかかりました。その2年後、ラオスとの国境に近いディエンビエンフーでフランス軍に圧勝しました。

1970年代後半の中華人民共和国とベトナム共和主義共和国との関係は、特にベトナム軍によるカンボジアへの侵攻で更に悪化していきました。1979年2月17日 中国軍が20万人もの軍隊をベトナム北部に派遣したことでついに戦争が起き、国境の町が壊滅されました。しかし、中国軍は200人足らずで帰還したのです。交通機関や政治的にダメージを受け、その後街は戦争後に復興しましたが、国境沿い1000kmには未だ発見されていない地雷が存在し、厄介な問題となっています。観光客が訪れる場所を含め、ほとんどの地域に安全宣言が出されましたが、人里離れた地域ではよく利用される道を通る方が賢明です。

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ホイアンの街と就職事情

伝統的な雰囲気に包まれ、観光地が密集した小さな都市 ホイアンはベトナム中のどの観光地よりも必要不可欠なものとなっています。狭い道には、苔で覆われた屋根の木造建てのお店が軒を連ね、特産品が多く並んでいます。都市の古くからの魅力が自然と保たれており、例えば、ベトナムの中でバイク運転の制限があるのはここホイアンだけで、規則として正面玄関に提灯をぶら下げるなど、地域に特化したビジネスを押しているのもここだけです。何百もの明かりが川のほとりや狭い谷から見え、トゥボン川の水に反射し光っています。また、都市の洋服屋は安価な値段で服を販売しており、アジアのトップグルメでは常に上位にランキングされていることも特徴です。

ホイアンの人気レストラン
https://www.tripadvisor.com/Restaurants-g298082-Hoi_An_Quang_Nam_Province.html

ホイアンの古代のルーツは16世紀の中国、日本、ベトナム、ヨーロッパの豪華な建築様式の融合が元になっています。全盛期には、チャボン川のほとりは商人が乗る船でいっぱいで、世界でもっとも商業が盛んな場所として有名でした。この長閑な街には、未だにその色褪せない雰囲気が残っています。

市内で最も写真撮影される光景は、間違いなく美しい来遠橋/日本橋ですが、町で最も注目すべき記念碑は、ホイアンの中国人在住者に関連しています。まず、200年経つ商人の家が現存し、今も成功した中国商人の子孫が住んでいます。ガラスの天井屋根や中国風の会館が 日常生活にあちこち存在します。現在、中国人はホイアンの人口約4分の1を占めています。

1999年にユネスコの世界遺産に認定されたホイアンは、今や多くの観光客が訪れる場所となっています。一部は観光地化されすぎていますが、服屋やアートギャラリーが多く、急激に宿泊者が増加していることを受けホテルの建設が急ピッチで進んでいます。またホテルで働くスタッフの求人募集が増えていますが、日本人が就職出来そうな日系企業が関連するホテルはダナンにあるため、ホイアンで就職するには難しいです。

ホイアンのミーソン地域にあるチャム族の跡地へ行き、気軽に日帰り旅行を楽しむことも可能です。周囲を散策してみたり、トゥボン川をボートで下りのんびりとサンパンに乗ることも可能です。もし可能であれば、毎月太陽暦の14日目に開催されるフルムーンフェスティバルと掛け合わせてみましょう。他と違うところは毎年10月に起こる洪水で、足が浸かるほどになりますので、その時期には雨靴を履いていくと観光をより楽しむことができます。

何世紀にもわたって、ホイアンは東南アジアの海上貿易において重要な役割を果たしました。少なくとも紀元前2世紀に遡り、サフィンと呼ばれる文化の人々が中国とインドの商品を交換していましたが、16世紀に中国や日本、ヨーロッパの船が港に集結し貿易ブームを巻き起こし、世界中から商人が集まる年に一度のスプリングフェアが開催されたフェイフォという港(ファイフォスプリングフェアの記事をご覧ください)が状況を一変しました。17世紀終わりの全盛期には、役人が王朝の資金を徴収しようと港に降り立ち、街は職人、金融業者、役人で埋め尽くされました。

貿易活動は日本と中国の商人で回っており、その多くは各国の政府がビジネス、規則や文化的個性を統括しているフェイフォに居住しました。1639年には、日本の将軍が海外旅行を禁止し、”日本通り”や独自の建築様式の数も減少しました。当然ながら、中国の政治改革で町の”自治体”は、会議場や崇拝の場の設置が行われました。

18世紀後半には、泥土がトゥボン川を塞ぎ始め、その影響で市場が中国でも開催されるようになり、それから港の貿易活動は減少していきました。フランス軍がファイフォに議事堂を建設し、トゥーラン(ダナン)から列車が開通されたため、以前の貿易経済を復活させられませんでした。町は、1954年にホイアンへと名前を変更し、何とかフランスやアメリカとの戦争の火から被害を免れ、現在でもその時代の雰囲気が残っています。

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ベトナム中部

小規模のこの国には、驚くほどコンパクトに観光地が密集しています。南部から来た観光客が最初にたどり着くのは、ホイアンでしょう。伝統的な素晴らしい建築物があり、その陽気な雰囲気とグルメが人気です。北部に足を伸ばすと、そこにはダナンがあり、バーやレストラン、洗練された新しい建築物が印象的となっています。都市の裕福さを前面にアピールしています。次に、かつてはグエン王朝の首都があったフエがあります。伝統的な王朝都市には宮殿の建築物や手入れが行き届いている中庭があり、まるで昔にタイムスリップしたかのようです。最後に非武装地帯(DMZ)として有名なベトナム戦争の跡地があります。現在物議を醸している北と南ベトナムを分割する場所がここにあります。

天候、料理、言語、さらには非武装地帯(DMZ)をまたぐベンハイ川の北側と南側の地域の特性の違いに気づくと思います。ベトナムはずっとこの地点で分けられていたわけではありません。最近は中国支配下の政治と文化の中心地域からドンコイの北側 ホアンソン山と、インド化されたチャンパ王国から南が国境でした。ベトナム独立国は17世紀に勢力を伸ばしたため、ベトナム軍は周辺にある国境に向けて南下しました。フエの近くにあるハイヴァン峠です。ここでもまたミーソン聖域での寺が制圧され王国が開かれた15世紀まで、チャム族が他国の侵攻を阻止していました。

それから、陳王朝と阮朝同士はこの同じ土地を巡り再び争い合ったのです。ライバル関係がついに爆発したのは19世紀にフエが国の都市になった時でした。阮朝はフエを帝国都市とし、そこに宮殿や寺、霊廟を建てたにも関わらず、戦争に苦闘しましたが、現在はベトナムの重要な観光地となっています。1954年にはベトナムは北緯17度線で分けられ、1975年の南北国境再統一までベンハイ川や非武装地帯(DMZ)がベトナムの国境となっていました。現在はあまり観光地としてオススメの場所ではありませんが、非武装地帯(DMZ)の荒れ果てた戦地は戦争で戦ったどちらの国軍兵士、また二国間の衝突で亡くなった市民にとっても辛い思いが残る記念碑となっています。

ダナン近くのチャイナビーチは、ベトナム戦争当時を思い出させる名前ですが、観光地はこれだけではありません。ホイアンの小さな川沿いの街は伝統色が強く、木造建築職人で活気に満ちたホイアンは特に素晴らしいのです。ホイアンから内陸側は他の地域へ向かう途中の町で、現在も巨大な建築計画が話題になっている最中、昔ながらのビーチが残っています。チャム族のスピリチュアル精神が活きるミーソン聖域は、草が生い茂る緑豊かな谷にあります。

この地域は北から南まで伝統的に天候が不安定で、一般的にはダナンやフエ周辺では9月から2月まで続く雨季には道路が分断されることも珍しくありません。フエは特に酷く、都市の年間降水量3メートルを考えると3月から8月までの乾季でも、豪雨に見舞われる日が数日あります。南部へ訪れるベストシーズンは2月から3月末の春で、気温と蒸し暑さが夏の最高記録(30度近く)に到達する前か、雨季直前の夏の終わりの時期でしょう。

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