フエの街と就職事情

未だに王朝時代の装備品がたくさん存在しますが、フエはベトナムで最も魅力的な都市の一つです。少なからず1802年から1945年までの国家首都としてのステータスのおかげもあり、歴史や料理巡りなど独特の体験を前面に押し出しています。グエン朝はもう存在しませんが、フエは威厳のある雰囲気が漂っています。ベトナムの中ではフエの人々はやや教養があると考えられており、未だに詩人や芸術家、学者や知識人を輩出している都市で、他よりこの地域には若者がかなり多く集まっています。

徐々にその観光地としての人気を取り戻しつつあるフエは、数日あれば難なくその歴史的背景を学ぶことができます。フエは3つの地域に分けられ、それぞれが個性的な特徴を持っています。19世紀にフォン川北部のほとりに要塞や、一時期は宮殿やそれぞれの居住区の区切りをつける格子を作っていました。ドンバ運河からフーカットまで地元フエの25%の人がボートで入港するため、ショッピング地区や中国の議事堂、パゴダス寺院のある地区は人で混雑します。かつてヨーロッパ都市と呼ばれ、南香江のほとりとヒューカム運河の間にあるデルタは、現在フエの行政の中心地となっており、ほとんどのホテルや観光サービスがそこにあります。

松の木がたくさんある南部には、グエン王が作った壮大な王の霊廟があります。曲がりくねった道は最終的に香江に集まっており、ティエンムー寺という7階建ての塔もあります。時間があれば、トゥアンビーチまでサイクリングして楽しい時間を過ごしてください。フエは軍事境界線(DMZ)のツアーの出発地でもあります。

フエは必然的にベトナムの有名な観光地になると期待されています。宿泊施設の種類とそのレベルや、有名なご当地フードを提供するレストランの接客水準も、平均より高いです。それにもかかわらず、観光客の多くはかなり早い段階でフエから他のエリアに移動しており、その理由は価格の高さや、不安定な天候にあります。ベトナムで最も降水確率が高いフエは、毎年10月から12月まで数日に渡り洪水が起こり街は大混乱です。

現在フエがある場所は、1306年までチャンパ王国に属していた地域で、その一部の現在のダナン北部が平和条約の下でベトナムの王女に譲渡されました。最初にこの地域に定住したベトナム人が、ホアチャン(現在のフエ)と呼ばれる場所の近くに行政の中心地を築き、1558年にグレン王がベトナム南部を支配しました。その後200年続く王朝です。17世紀後半に、グエン王は現在は主要な街であり文化の中心地である場所(フースアン)に要塞を移したあと、その地域はタイソン王クァンチュンの下で都市となりました。

しかし、本当にフエを有名にさせたのはベトナムの次の王、グレン王朝を創設したザーロン帝でした。1802年から、首都をタンロン(ハノイ)から王朝によって改名された都市フエに移し国を統治しようとしていました。ザーロン帝はフランス軍から受けた支援で借りがありましたが、彼の帝国都市は中国的な考えを持っており、他国にはオープンではなく閉鎖的国家であったのです。独自の地区と管理制度が存在しました。

グエン王は儒教者で保守的な統治者であり、フランス軍に反抗まではできないものの西欧人に疑いの目を向けていました。1884年にフランス軍が北西のフエの存在を聞き入れ、名ばかりの統治者を抑え1885年に支配しました。グエン王朝の元でフエは芸術、学問、仏教学の有名な中心地になっていましたが、過剰な建築計画と贅沢なライフスタイルが税金にしわ寄せをかけていました。フエはバオダイ王が1945年に王位を破棄したと同時にベトナムの都市ではなくなりました。その2年後、大火事が寺や宮殿を消失させてしまったのです。19世紀初期には社会的・政治的不満が爆発し、反植民地派のエリートが率いるデモ運動が街を陥落させてしまったのでした。1960年代から人々に不満が溜まっていたのです。1963年にその緊張がついに爆発し、ゴ・ディン・ジエム首相が導入したカトリック制度に猛反発した何百人もの仏教主義者が軍隊と衝突しました。

政府軍がその年の終わりに仏教デモ運動集団に反対し仏教の聖職者と運動に関与したと思われる活動家の検挙に乗り出しましたが、これが引き金となり、修道士や修道女による焼身自殺にまで事態をエスカレートさせました。

1968 テト攻勢により北ベトナム軍 (nva) 25日間の都市を支配し、フエは分断されました。共産主義者たちは131日未明にフエに侵入し、城砦の上に旗を掲げ、瞬く間に都市全体と居住地を支配しました。帳簿リストを利用し政府職員、学者、司教、アメリカ人、外国人支援労働者の支援者を探し始めました。300人近くが後に銃で撃たれ亡くなったり生き埋めにされました。しかしこれだけでは終わらなかったのです。それから引き続き起こった500人の北ベトナム人への暴行、その後の衝突でベトコンにいた384人の南ベトナム兵隊と142人のアメリカ人兵隊が亡くなり、少なくとも100人の市民も命を落としました。フエはアメリカ(NVA)軍の攻撃により要塞が陥落し、ジャーナリストのスタンリー・カーノウ氏がこの戦争を”最も悲痛な戦い”と呼んだように、侵略から10日後まで共産主義者は家から家を探し回ら流アメリカ軍に追いやられていました。その7年後の1975年3月26日、アメリカ軍はフエを最初の主要な街として解放を行いました。

フエ再建という大きなタスクは、20年以上にわたって現在も行われていますが、ユネスコ世界遺産リストとして上がった際には宮殿を改装し文化芸術と技術スキルの復活まで幅広い計画のために様々な国から資金を募りました。

フエは観光地なので就職先を探すことは難しく、車で1時間ほど離れたダナンで探すことが望ましいです。

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ベトナム北部

ベトナムは中国とラオスの国境にありハノイの上部位置しており、最大の広さを誇ります。紅河デルタの周辺には緩衝地帯が広がっており、周辺地域の多くが交通の便が整っておらずアクセスが困難です。少数民族が存在しており人口はまだらで、観光客に最も人気の場所は紅河の谷から突き出るファンシーパン山というベトナムで最も高い山となっています。以前のフレンチヒルステーションから簡単にアクセスができ、ファンシパン山の近くにはサパという少数民族や見事な景色を眺めながら小集落へのトレッキングができることで有名な場所があります。紅河の反対側、車で数時間のところにあるバック・ハは花モン族の中で最も個性的なグループの1つです。これら二つの観光地と戦争の地であるディエンビエンフーは、1954年にフランス軍に勝利の決め手となった場所で、ソンラ省やモクチャウ、マイチャウを通り景色を眺めながらハノイに戻る余裕のある観光客が訪れる場所です。

紅河の谷の東側の州は特にハザン省とカオバン省の国境にある息をのむほどの景色があり、訪れる価値のある場所です。北東地域は通り抜けられないジャングルと森林で覆われた石灰石でできた絶壁があるベトナム最大の湖バベ国際公園が有名です。北部の山々は観光施設も少なく、交通機関が整備されていません。しかし、この地域はハノイの旅行代理店が新しいツアーを企画しており、一人旅をする人たちがジープやバイクで地図に載っていない場所へ向かいますので、観光客にかなり人気になってきています。

How to get to ba be? (and sapa)
https://www.tripadvisor.com/ShowTopic-g293924-i8595-k5403377-How_to_get_to_ba_be_and_sapa-Hanoi.html

北勢地域を交通機関や自動車で観光するには6日は必要となります。北西地域全体を観光するには、ハザン省を含め最低でも6日間必要ですが、バベ湖にもっと滞在しパクボ洞窟かコアバンの近くにあるバンジオック滝に行きたいなら、北西や東北を組み合わせて2週間の旅に出かけてみましょう。きっと忘れられない思い出になります。ただし、このエリアの雨季の道中は危険であることを心に留めておきましょう。旅行日程を柔軟に考えておくことが大切です。あまり時間がなければ、公共交通機関やタクシーなどを使って、ハノイでサパ、ヤマイチョウ、バベ国立公園で2、3日過ごしましょう。もう一つ限られた時間を有効に過ごす方法は、ハノイの代理店のツアーに参加することです。

1920年代にフランスによってサパでヒルステーションができた以前の歴史記録は、ほとんど記録に残っていません。フランス軍の滞在期間さえも簡潔に記録されているだけです。人里離れた植林が集まった場所は、ベトナム独立運動の計画に最適な場所だったのです。1941年の短期間で、ベトミン氏による1945年の8月革命を受け、ホーチミン氏は中国の国境 パクボ洞窟で身を潜め、その後南下しトゥエンクアン省に移動しました。これら北部の省は、フランス軍の支配から最初に解放されましたが、北西地方の少数グループ タイ族、モン族、ムオン族が植民地を支配していた権威者を支援しました。ベトミン氏がこの地域の実権を握るのには1952年までかかりました。その2年後、ラオスとの国境に近いディエンビエンフーでフランス軍に圧勝しました。

1970年代後半の中華人民共和国とベトナム共和主義共和国との関係は、特にベトナム軍によるカンボジアへの侵攻で更に悪化していきました。1979年2月17日 中国軍が20万人もの軍隊をベトナム北部に派遣したことでついに戦争が起き、国境の町が壊滅されました。しかし、中国軍は200人足らずで帰還したのです。交通機関や政治的にダメージを受け、その後街は戦争後に復興しましたが、国境沿い1000kmには未だ発見されていない地雷が存在し、厄介な問題となっています。観光客が訪れる場所を含め、ほとんどの地域に安全宣言が出されましたが、人里離れた地域ではよく利用される道を通る方が賢明です。

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ホイアンの街と就職事情

伝統的な雰囲気に包まれ、観光地が密集した小さな都市 ホイアンはベトナム中のどの観光地よりも必要不可欠なものとなっています。狭い道には、苔で覆われた屋根の木造建てのお店が軒を連ね、特産品が多く並んでいます。都市の古くからの魅力が自然と保たれており、例えば、ベトナムの中でバイク運転の制限があるのはここホイアンだけで、規則として正面玄関に提灯をぶら下げるなど、地域に特化したビジネスを押しているのもここだけです。何百もの明かりが川のほとりや狭い谷から見え、トゥボン川の水に反射し光っています。また、都市の洋服屋は安価な値段で服を販売しており、アジアのトップグルメでは常に上位にランキングされていることも特徴です。

ホイアンの人気レストラン
https://www.tripadvisor.com/Restaurants-g298082-Hoi_An_Quang_Nam_Province.html

ホイアンの古代のルーツは16世紀の中国、日本、ベトナム、ヨーロッパの豪華な建築様式の融合が元になっています。全盛期には、チャボン川のほとりは商人が乗る船でいっぱいで、世界でもっとも商業が盛んな場所として有名でした。この長閑な街には、未だにその色褪せない雰囲気が残っています。

市内で最も写真撮影される光景は、間違いなく美しい来遠橋/日本橋ですが、町で最も注目すべき記念碑は、ホイアンの中国人在住者に関連しています。まず、200年経つ商人の家が現存し、今も成功した中国商人の子孫が住んでいます。ガラスの天井屋根や中国風の会館が 日常生活にあちこち存在します。現在、中国人はホイアンの人口約4分の1を占めています。

1999年にユネスコの世界遺産に認定されたホイアンは、今や多くの観光客が訪れる場所となっています。一部は観光地化されすぎていますが、服屋やアートギャラリーが多く、急激に宿泊者が増加していることを受けホテルの建設が急ピッチで進んでいます。またホテルで働くスタッフの求人募集が増えていますが、日本人が就職出来そうな日系企業が関連するホテルはダナンにあるため、ホイアンで就職するには難しいです。

ホイアンのミーソン地域にあるチャム族の跡地へ行き、気軽に日帰り旅行を楽しむことも可能です。周囲を散策してみたり、トゥボン川をボートで下りのんびりとサンパンに乗ることも可能です。もし可能であれば、毎月太陽暦の14日目に開催されるフルムーンフェスティバルと掛け合わせてみましょう。他と違うところは毎年10月に起こる洪水で、足が浸かるほどになりますので、その時期には雨靴を履いていくと観光をより楽しむことができます。

何世紀にもわたって、ホイアンは東南アジアの海上貿易において重要な役割を果たしました。少なくとも紀元前2世紀に遡り、サフィンと呼ばれる文化の人々が中国とインドの商品を交換していましたが、16世紀に中国や日本、ヨーロッパの船が港に集結し貿易ブームを巻き起こし、世界中から商人が集まる年に一度のスプリングフェアが開催されたフェイフォという港(ファイフォスプリングフェアの記事をご覧ください)が状況を一変しました。17世紀終わりの全盛期には、役人が王朝の資金を徴収しようと港に降り立ち、街は職人、金融業者、役人で埋め尽くされました。

貿易活動は日本と中国の商人で回っており、その多くは各国の政府がビジネス、規則や文化的個性を統括しているフェイフォに居住しました。1639年には、日本の将軍が海外旅行を禁止し、”日本通り”や独自の建築様式の数も減少しました。当然ながら、中国の政治改革で町の”自治体”は、会議場や崇拝の場の設置が行われました。

18世紀後半には、泥土がトゥボン川を塞ぎ始め、その影響で市場が中国でも開催されるようになり、それから港の貿易活動は減少していきました。フランス軍がファイフォに議事堂を建設し、トゥーラン(ダナン)から列車が開通されたため、以前の貿易経済を復活させられませんでした。町は、1954年にホイアンへと名前を変更し、何とかフランスやアメリカとの戦争の火から被害を免れ、現在でもその時代の雰囲気が残っています。

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