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ベトナム各地の街情報と就職事情

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ホーチミンの街と就職事情

ベトナムを代表するホーチミン市は、ベトナム最大の街であり商業の中心地となっています。1986年のドイモイ政策による経済変化の結果、都市が活性化されました。サイゴン川のほとりにあり、人口約800万人が住んでいるこの街は、旧名サイゴンとしても広く知られています。戦争跡地のイメージから、シンガポール、バンコクそして他の南アジア勢力国に劣らない大都市に変貌を遂げ、。高級レストラン、リゾートホテル、派手なバーやクラブ、高級品の輸入販売店などが経済を大きく成長させました。フランス植民地時代の異国情緒溢れる景色から、シンプルなソビエト風の住宅、古代からのパゴダ(寺院の塔)も観光客を引きつけ、経済成長の追い風となっています。

しかし、ホーチミン市では未だ食べ物、住宅、仕事に関しては経済的に豊かな国民が少ないのです。ストリートチルドレンは、本、ハガキ、宝くじ、ライターを観光集団を探して歩き回り、手足がない物乞いは運転が雑なトローリに乗り込みます。町では、財布を盗もうと目を光らせているスリがうろついています。物乞いの数は徐々に減ってきていますが、観光客はその現実を受け入れなければなりません。

ハノイをロマンチックな魅力溢れる都市とするなら、ホーチミン市はその反対で、見るもの聞くものすべてが騒がしくギャンブル色が強い都市となります。急激なスピードで新しいホテルなどが建築され、目まぐるしい発展を遂げています。

おびただしい車とマイクロバスが、最先端のホンダSUVと肩を並べ並木通りを走行しています。この混沌とした中で、地元の人々は生活しているのです。スマートに制服を着こなす学生は、街路脇にいる宝石の押し売りをする人の前を通り過ぎていきます。デザイナーブランドのジーンズを着た10代の若者がキャッキャと携帯電話で話す最中、買い物を終えた女性が紫外線や埃を防ぐためにギャングスターのようなバンダナをつけオートバイに乗っています。ホーチミン市を楽しむコツは、その慌ただしさを受け入れることです。市場で販売される豚を積み上げたオートバイや、麺を宣伝するために竹のカケラをトントン叩きつけて注意を引こうとする少年も、そこらじゅうで目にすることができます。

ホーチミン市は24区に分かれています。観光客は第1、3、5地区より向こう側へはあまり観光に行きません。さらに、他の観光都市とはかなり対照的なフーミーフンは、シンガポールにもないような綺麗な街で、別名第7地区の南サイゴンと呼ばれており、近年海外駐在員が増加しています。ホーチミンで働いている日本人の多くは第1区で生活しており、家族連れの日本人は、日本人学校がある第7区で生活している人が多いようです。 ホーチミンで生活してみるのも、楽しそうですね。

ホーチミンの就職事情としては、日系企業だけでなくベトナム企業や日本以外の外資系企業でも仕事はあるのですが、英語がネイティブレベルでないといけなかったり、日常会話以上のベトナム語力が必要であったりとハードルは高いです。そのため、日本人であれば日系企業で就職することが多くなります。職種は市内ですとオフィスワークか営業職が、ホーチミン郊外や近郊の省(ビンズン省やドンナイ省など)での工場勤務がメインとなります。

ホーチミンで働く日本人、ベトナム人を日本で雇う企業も増えているそうです。
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第1地区のサイゴン川のほとりに位置する本土の中心地、Ben Nghe 橋の川の合流により形成された土地にあります。古くからこの土地はフランス領でしたが、未だサイゴンとして広く知られています。ドンコイにはそのような歴史的背景があり、植民地の面影や美術館が数カ所あるT型の通りは、レ・ズアン通りと呼ばれています。しかし観光地の多くは、お互いに遠く離れた場所に点在しており、観光客は場所を点々としなければなりません。これらの施設の中には、アメリカ戦争に特化した美術館がいくつもあります。

戦争関連の場所をメインに回る観光客がおり、統一会堂のような歴史観光スポットにはたまらない場所となっています。まだ、本土は数世紀に渡るアメリカの介入より以前から存在していましたが、全ての都市が飛行機、タンク、および大砲を中心に発展したわけではありませんでした。ノートルダム大聖堂や市役所のようなフランス植民地時代の名残が残る建物の中でしかし、市中のうっとりさせるような礼拝所があるクアン・アム塔と、福海寺(玉皇殿)のような華々しい歴史ある建造物と比べると新しい外観です。もし静かな場所に行きたければ、比較的静かな植物園に行ったり都市の歴史美術館に戻ることもできます。

観光し疲れたら、市街からそう遠くない水田やビーチ、田舎に行ってリフレッシュできることもホーチミン市の魅力の一つです。市外で一番人気な旅行先は、クチの地下道です。この周辺の住民はアメリカに干渉されることはありませんでした。タイニン市にあるトンネルは、その地の高台教(カオダイ教)の大寺院ツアーでよく組み合わされます。ミトー市のメコンデルタは丸一日を使えばプチ旅行をするのはかなり簡単です。

灼熱のホーチミン市を訪れるベストシーズンは12月から4月までの乾季です。5月から11月までの湿度の高い時期には、旅行にはあまり影響はないですが、かなりの頻度で熱帯嵐が起こります。平均気温は一年中26℃から29℃を上下しており、3月、4月、5月が最も暑い時期です。

ホーチミン市の初期の歴史の知識は、大まかには以下の通りです。1世紀から6世紀の間に扶南王国の支配下になりました 。扶南王国はその後、プレアンコールチェンラ帝国のカンブジャ人により合併されましたが、これらの帝国が、この土地がのちに大都市 ホーチミンとなろうとは夢にも思わなかったのです。

クメール漁師はこの地でなんとか生計を立てていましたが、人の居住地としては条件の良いデルタ湿地帯北部の平坦な土地に集落を作りました。元々はプレイノコールと呼ばれ、メコン川下流のカンボジア船の保管庫として、17世紀までにはマレー、インド、中国から来た商人の取引地や駐屯地として栄えた場所でした。

そのような劇的な変身は北部の人々から注視されるようになったのです。18世紀までに、ベトナムはチャンパ王国を支配し、このエリアはグエン王朝により占領されました。新しく名付けられた国名 サイゴンは、 ”kapok tree”(カポックノキ)というベトナム語の言葉から由来されていると思われます。西山党の乱を受け、1772年に阮王朝が領地全体を八方形の城壁で囲みサイゴン城を築き上げました。ソンタイ兄弟を下した軍隊はベトナムの支配を密かに進行させるため、数十年に渡りベトナムを支配下に置こうと密かに企んでいたフランスの支援部隊を味方につけました。ついに1861年に、フランス宣教師の迫害を口実としてサイゴンを抑圧し、1862年のサイゴン条約ではフランス領コーチシナ(ベトナム南部の呼称)と宣言しました。

ホーチミン市にはフランス植民地時代の特徴や面影が残っています。橋は取り壊され、湿地帯は乾ききり、蒸気機関車や洒落た名前がつけられた大通りのようにフランスを連想させるような名前や場所が増え始めました。新たにヨーロッパ風のカフェやブティックができ、ベルモットを飲み、バゲットを食べ歩く市民が多くなりました。1930年代に訪問したサマセット・モーム(フランス出身の作家)は「陽気で笑顔に溢れた小さな地方の町」を思い出したそうです。フランスの植民地サイゴンの人々は都市の急速な拡大の最中、ベトナムのゴムと米を輸出にメリットを見出し投資をしました。

一方でフランスの定めた規則は、非常に厳格なものでした。1920年代から1930年代を通じて否定的な意見が目立ちはじめましたが、国家主義者のデモ運動は第二次世界大戦の南アジア以前にはあまり目立っていませんでした。1945年のポツダム会議では、英国陸軍が南ベトナムにいる日本軍の軍事縮小をさせる命令を課しました。サイゴンに到着した2ヶ月後フランス軍の軍事力が再び勢いを増し30年にもわたる戦争をはじめたのです。サイゴンは1954年にジエンビエンフーでのフランス軍が降伏を宣言した反フランス戦争の間は全く行動を起こさなかったのです。

1955年、ディーム大統領により南ベトナム共和国の首都であったサイゴンは、米兵の職務撤退に伴い、たちまちベトナム戦争の要でありドンコイ沿いの安いバーが多く集まる、休養の地(当時ツードとして知られていました)となりました。学生や修道士に対するデモ運動への共産主義者の爆撃など混沌がありましたが、サイゴンには良き時代もありました。数百のアメリカ人を味方にした起業家が多く生まれ、儲け仕事は1973年のアメリカ軍撤退によって無くなり、2年後、大統領宮殿の目の前まで迫るほどにホーチミン運動が広がり、共産主義者は鎮圧されました。それから1年も経たず、サイゴンは、新たにホーチミン市と名付けられました。

戦争の年が始まりました。アメリカ軍による広範囲の爆撃により、比較的安全な都市でも何百万人もの難民が避難を強いられ、経済と社会全体に打撃を与えました。数百万にもぼる人々がボートで国外に逃亡したのです。

1986年〈ドイモイ氏により経済の自由化が施行され、市場経済が再導入、幸運なことに経済上昇の兆しが見えました。二十年後の現在、都市の再建が最優先され住人はこれまでになく明るい未来を期待しています。

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メコンデルタの街と就職事情

地理の教科書にある写真のようなメコンデルタの果樹園や水田、沼地を訪れると、非日常的な風景に惹き込まれます。ホーチミン市から平地が続き、タイ南部の海岸までの地域がメコンデルタとなっています。その広大な土地からの穀物の収穫量は、国の年間穀物総収穫量の3分の1を占めています。このことから、農業の奇跡と呼ばれるベトナムの稲作地帯です。米は特産品ですが、ヤシの木、果樹園、サトウキビ畑の栽培も発展しています。また、円錐の帽子をかぶった農民が栄養豊富な土壌で育つ穀物を耕す光景は、ベトナムで先祖代々受け継がれてきた光景の1つです。ベトナム人にとって、この地域はチュウロンとして知られており、数多くの洪水に耐えた水田では千年祭が開催され、メコン川周辺の9つの属国の伝話9匹の竜の元になりました。

意外にも、農業が栄えはじめたのは最近だったのです。17世紀の終わりまでカンボジアの支配下に置かれ、地域は少数のクメール王国の人々の居住地となっていました。彼らは湿地帯に拠点を置いていましたが、追い出されてこちらにやってきたのです。18世紀には、フランスが支配していたにもかかわらず、グエン王がデルタを統治するまで着実に勢力域を広げました。その栄養豊富な土壌が大きなメリットを生むことに勘付き、フランスの植民地支配者はベトナムの小作人を駆り立て、湿地の水田などを耕させました。小作人は、植民地政府が米の収穫にお金を注ぐことに気付いていたため、これに合意しました。皮肉にも、米の収穫で得た資金は、フランス軍の植民地化を進める資金獲得の為に使われル事になりました。小作人は大金をもらえるメリットに魅力を感じ耕作に飛びついたのです。さらに皮肉なことには、フランス軍にも提供されていた米が、フランス軍を打倒すべく立ち上がったベトナム軍の戦力資金ともなっていました。のちに極秘の米の保存庫を保持していたベトコン氏は、アメリカ軍に保存庫がある地域以外のエリアを空撃させるように仕向けたのです。

メコンデルタへ訪れると、異国情緒の豊かさが大いに感じられるでしょう。水牛の背中に乗っている子どもや、女性が伝統的な白のドレスを着て田舎の小道を自転車を運転する情景が日常生活にあります。耕作人はすぐ稲作農業に取り組み始め、市場の販売業者は、果物が積み重なっている車を見て笑みを浮かべていました。鮮やかな黄色の芳香木が道路沿いで乾燥され、夕暮れ時の動物保護区域ではコウノトリの群れが飛び回ります。クメール僧がパゴダ寺院の影をゆっくりと歩いています。艦橋で子供が無邪気に走り回ったり、川床のデルタの複雑に入り組んだ水田でボートを漕いでいます。

かなり離れた場所にあることから、あまり観光地として有名ではありませんが、デルタ地帯には観光施設のある町が多くあります。ミトー市はボートを使い旅行するには最適の都市で、1日で巡ることができるホーチミン市とはアクセスの相性が抜群です。デルタ最北端の国 ティエンザン省には食欲をそそるグルメがあり、ミトー市からのんびりとした雰囲気のベンチェ省や果樹園は目と鼻の先にあります。カオラインは鳥好きにはもってこいの場所ですが、昔からずっと色褪せない川と色鮮やかな花の栽培を行っているサデクにはさらに見所があります。道を下った先にもう一つボートでの旅行にいぴったりのビンロンと呼ばれるところもあります。

観光客の多くは、立派なホテルやレストランを最大限に利用し、また近くにある水上マーケットに繰り出す前の休息の場所としてカントー市で1日から2日を過ごします。カントー市から、周囲にある沼地のデルタへボート探索ができるカマウ省 デルタのふもとにはふと足を止めてしまうような魅力があります。 クメール族の本拠地であるソクチャン省で毎年11月から12月に開催される華やかなオク・オム・ボク祭に出くわしたら旅の良い思い出にになります。そこでは、地元のクメール人がロングボートレースを開催しています。一方で北カントー省では、サム山の南部広がる活気溢れる町チャウドクの広大な平野が観光客を迎えます。カンボジアとの国境の始まりであるメコンデルタには、ボートでプノンペンへ向かう観光客が絶えず、帰国する前にここで数日を過ごす人もいます。ここからヒューコック島からカンボジアのシアヌークビルやバイスバルサ湾沿いに旅行ができるため、人気度が高まっています。

洪水を考えると、デルタを訪れるベストシーズンは、おそらく12月から5月にかけての乾季でしょう。

メコンデルタ周辺への工業団地は少なく日系企業の進出もあまりありません。日本からの駐在員として働いている日本人はいるようですが、数えれるほどしかいません。現地採用スタッフとして働くにはハードルが高いエリアです。どうしてもメコンデルタが良いとなれば、バイクで3時間ほど離れたホーチミンで働いて週末だけ過ごすという形が現実的です。

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バンメトートの街と就職事情

バンメトートはダクラク省の首都で、人口30万人の街です。都市自体はそれほど見て回る場所はなく、急激な都市開発によりスプロール現象(都心部から郊外へ無秩序、無計画に開発が拡散していく現象のこと)が発生しました。その結果、町中に現代的な建物が並んでいます。ジープ(四輪駆動の自転車)や、レズアンの戦勝記念塔は街に広がる道路の終着地となっています。高級車がクラクションを鳴らし走行していることからも分かる通り、経済的に裕福な街です。しかし、このように都市改革の影響を受けているバンメトートであっても、ここではコーヒーとゴムの生産が盛んに行われていますが、日本人が就職できそうな場所はありません。また改革の波が他の地域から押し寄せてきた影響で、改革は都市の外側から中心に向かって行われており、いまだに驚くほど汚れている場所があります。バンメトートの居住地は少数民族村の郊外に位置しています。北部郊外の街 アコドン村(現在も高床式ロングハウスに暮らすエデ族が居住する村)に古くから存在する少数派民族のコミュニティ(ほとんどがエデ族)やヨックドン国立公園(カンボジアとの国境近くにあるモンドルキリ保全林と接する公園)の近くにあるバンドンの田舎街、滝などがあります。都市の人口の4分の1が、これらの高地に住んでいるエデ族やベト族で占めています。

4月から7月の間は、レモン色の蝶々が花びらのようにふわふわと飛んでいるところを見ることができます。

フランス植民地時代、街は栄養が豊富に含まれた赤土で栽培されるコーヒー、紅茶、ゴム、硬材の販売で繁栄し、周囲の村々で行われている植林活動の中心地でもありました。植林のオーナーや植民地支配人は、象やヒョウ、トラの狙い撃ちを娯楽としていました。数年後、アメリカ軍がフランス軍のベトナム支配を引き継ぎましたが、その時には、すでにベトナム軍が侵攻したあとでした。バンメトートをホーチミン運動の最初の「ドミノ(植民地)」として陥落させたのです。

プレイクも同様に観光する場所はあまりありませんが、戦時中はベトナム軍によりアメリカの空爆キャンプハロウェイが攻撃され、ベトナム戦争の引き金になったプレイク事件で有名な場所です。過去に数回、反政府運動の中心地として利用されました。現在は遠く離れた場所特有の陽気な雰囲気に包まれていますが、1975年に南ベトナム軍によって攻撃にさらされ壊滅的な被害がでました。敵軍の攻撃が終了すると、都市は早急な復興作業が必要になる程何もかもが破壊され、その後にソビエト連邦の支援により復興が急ピッチで進められました。1980年代の復興活動では都市開発が進んだことや、中心部の高山地帯からのアクセスの便利さを考えると、プレイクへの滞在を考える人も多いでしょう。周囲にある少数民族村への見学には、ガイドの付き添いが必要になりますが、そのアクセスの近さからプレイク自体も便利な場所として観光客に利用されています。ガイドや公的機関(政府)の付き添いなしで少数民族村を探検したい場合は、1時間ほどかけて50km北に向かえば、コントゥム省という場所があります。そこでは、観光に関しての規制がなく、ガイドなどの付き添いなしで観光が可能です。

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ダラットの街と就職事情

ベトナムで人気の避暑地、ダラットは、高度約1500mにあるランビアン山の激しく曲がりくねった山々の中にあります。その婉曲した道、絵のように美しい教会、豊作の野菜農園や大きな滝、風変わりで面白い植民地の骨董品など様々なものが混在しているダラットはゆっくりするのにぴったりの場所です。旅行で訪れると、ハノイやホーチミンほどに賑やさはなく、涼しい気候なので働いてみたくなるのですが、日本人向けの観光地ではないこともあり日本人が働くとなると難しいです。日本の大手商社などが農業関連の会社を作って進出しているものの、求人がありません。

ベトナム戦争中の暗黙の合意によって、ハノイとサイゴンは、都市の爆撃を受けず半世紀ほど前の景観がそのまま残っています。しかし、ダラットにはあまり期待し過ぎすに訪れる方が良いでしょう。人口約20万人で、ひっそりとした避暑地だからです。1950 年代にはじめてダラットの建築物を見たノーマンルイス氏は、ベトナムで最も「くすんだ小さなリゾート地」を見つけたと言ったそうです。現在は植民地の名残があり、東ヨーロッパ建築が軒を連ね、パゴダ寺院がある場所です。特に国内の観光客が好む白鳥の形をしたペダルボートやカウボーイの格好をした乗馬ガイド付き添いのアクティビティを全面に推しています。

三日月型をしたダラットの中心部は、霊福寺の西側周辺に位置しています。1919年にこの地域にあるカムライ川はグランドラック(素晴らしい川)と名付けたフランス軍によりせき止められました。爆撃を逃れ、曲がった道や階段、石でできた建築物など、フランスの影響を受けた建築物が未だ残っており、赤い屋根瓦の建物がハイバーチュンやファン・チュー・チンと言われる街の間の小丘を覆うほどの軒を連ねています。

ダラット周辺の壮大な風景は、トレッキング、バイクでのドライビング、その他のアクティビティの挑戦にぴったりです。

12 月から5 月の間は現地にあまり見所はなく、地域の湖でボートに乗ったりカヤックのレンタルができるトゥヤンラム湖までケーブルカーに乗るなどして楽しむことができます。もう一つ人気のアクティビティは電車でチャイマット村へ行き、霊福寺の装飾品を見て楽しむことです。

タランティンイエウ、または愛の谷と呼ばれるこの谷は、ダラットの5キロ北に位置しています。バオダイと宮廷の仕え人が行った1972年のダム計画で、水が噴出し谷が浸水してできたのがダティエン湖です。派手なレンタルバイクが走行し屋台が多く立ち並んでおり、谷からは未だに水が湧いています。樹木で生い茂っている愛の谷はかなり見応えがあります。湖周辺でカウボーイ付きのポニー乗馬体験ができるなど、観光客の興味を引くものもあります。

愛の谷の周辺にいるなら、歴史関連の場所より観光地に立ち寄ることをおすすめします。ここではいくつか伝統的な家屋が建てられるまでのプロセスと、絹の刺繍の展示がされています。女性たちが真剣な眼差しで仕上げる代表的な刺繍をじっくりと見ることができます。くぐり抜けるように進むと、静物画、美しい織物や景色画の展示があり、その素晴らしさに目を奪われるでしょう。

瓦付き屋根の高床式の家周辺(ラト村)は、現地の人々で混雑していますが、ダラットの業者にツアーを申し込むことができます。コホーというグループの中でも、ラト族と呼ばれる人々は、耕した米や豆類、野菜類を耕し生計を立てています。村の作りはシンプルですので、ガイドは必須ではありません。

バイクを借り1日出かける場合は、滝のあるラト村とその道沿いにあるアンクロエット湖をめぐることができます。乾季の間、滝水は干上がっていますが、そのエリア周辺はより一目につくところにあり魅力的です。

ラト村の山からランビアン山の標高2169kmの頂点が見えます。徒歩で4時間下ったところにあり、車で入れるのは下部にあるヤシの木の入り口までとなっています。感性豊かな人々は山の形を力説しますが、それにはこのような話があるからです。不運な二人の話の言い伝えで、ランと呼ばれるラト族出身の男性とビアンと呼ばれるチル族出身の女性のカップルが部族の敵対関係により結婚できずにいました。悲嘆にくれたビアンはその後亡くなり、ランビアン山の形は彼女の息を引き取る直前の胸を象徴していると言われています。彼女の死後、罪悪感に苛まれた父親が、全ての対立していた部族グループをコホ族として統一することで部族のいがみ合いをなくそうと動き出しました。

ダラット湖から国道20号線を南下すると、右側にロビンヒルの頂上へと続く交通道路の入り口が見えます。ここはケーブルカーの到着地点でもあります。現在は建設中で景観が損なわれていますが、都市近くで斜面を走りながら素晴らしい景色を眺められます。静かで綺麗な水が広がっているトゥヤンラム湖でボート乗船するのには、体験料が必要です。現地のタクシーサービスではよくこちらに連れてこられることがありますが、ご自身のドライブで滝にたどり着くことも可能です。

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