7世紀に唐時代の中国軍がベトナムに侵攻したとき、彼らは新しい保護領の首都として紅河の砦を選びました。お気楽にも、アンナム(安らかな首都)と名付けたのです。3世紀後に反ベトナム軍が、939年に素晴らしい隠れ家と呼ばれるダイラから中国軍を追放し、その後要塞は1010年まで放棄されていました。ハノイの創設の父として慕われているリタイト王が、その地の魅力に気付き、紅河の近くに自身の中庭を作りました。伝記によると、王が遊覧船から紅河のほとりに踏み入れた時、黄金の竜が天国に向かって昇っていったという言い伝えがあり、運が王の味方をしたように感じられます。それから”竜が昇る都市”タンロンは大きな問題も起きず、次の800年間、国の首都となったのです。

リタイト王と彼の後継者が王の将来の発展を願い、土占いにしたがって寺や宮殿都市に適している場所を選び、防護用の低い壁を築き、職人・商人で盛んな町を設立しました。王朝の都市東側には、現代のハノイの礎となった最初の大学が設立されました。1407年からは中国の支配下になりましたが、この時は英雄レロイが1428年に首都を奪還する前でした。レ王朝の王は溜め池や沼の水を引き、新しい宮殿を建設し人口の増加に備えました。15世紀末までタンロンが偉大な再建王 レ・タイントン王のもとで黄金の時代を謳歌しましたが、その直後の1497年の王の死からは、王国は無政府状態に陥ってしまいました。一方で、都市はついにザーロン帝が1802年にフエに宮廷を移すまで徐々に縮小していました。

1830年までにタンロンが地方都市に左遷され、”ハノイ”や川沿いにある都市”として知られることがなく、縮小する軍事力に対し1882年にリビエ軍曹率い攻撃を仕掛けるフランス軍に対する援軍として、支援を求めることはありませんでした。東の都市を意味するドンキンの由来とされるトンキンで、最初のフランス保護地区の首都となりました。1887年よりあとはインドシナ連邦政府の中心地となったのです。ヨーロッパ風の宮廷と古代の記念碑が再建されましたが、ベトナムのコミュニティは大きく分断され、常に不自由な暮らしを強いられ、暴動やデモが頻繁に起こっていたのです。

ベトナム独立共和国の首都となる1954年まで待ち続けなければなりませんでしたが、19458月革命の間は、何千もの地域の国家主義者がハノイの通りを埋め尽くし、その後フランス軍の再来に対して対抗に出ました。ハノイはベトナム戦争で、特に1972年の悪名高いクリスマスの空中襲撃間に深刻なダメージを受けました。1950年代のハノイにとって不可欠であった資源の不足によるその後の政治孤立の影響も大きかったのです。この名残は、ハノイが国際的な都市に一新された現在でも所々に見て分かります。1990年代初めからの観光客の殺到で起きた経済上昇が、個人経営のレストランやホテル、ブティック、工芸品ショップや代理店の急激な増加の起爆剤となりました。古い建造物は高層建築物に取って代わられ、交通の混雑が増すとともに、歴史溢れる魅力的な都市を現代化の波から生き残らせることができるかが大きな課題となっています。

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