バンメトートはダクラク省の首都で、人口30万人の街です。都市自体はそれほど見て回る場所はなく、急激な都市開発によりスプロール現象(都心部から郊外へ無秩序、無計画に開発が拡散していく現象のこと)が発生しました。その結果、町中に現代的な建物が並んでいます。ジープ(四輪駆動の自転車)や、レズアンの戦勝記念塔は街に広がる道路の終着地となっています。高級車がクラクションを鳴らし走行していることからも分かる通り、経済的に裕福な街です。しかし、このように都市改革の影響を受けているバンメトートであっても、ここではコーヒーとゴムの生産が盛んに行われていますが、日本人が就職できそうな場所はありません。また改革の波が他の地域から押し寄せてきた影響で、改革は都市の外側から中心に向かって行われており、いまだに驚くほど汚れている場所があります。バンメトートの居住地は少数民族村の郊外に位置しています。北部郊外の街 アコドン村(現在も高床式ロングハウスに暮らすエデ族が居住する村)に古くから存在する少数派民族のコミュニティ(ほとんどがエデ族)やヨックドン国立公園(カンボジアとの国境近くにあるモンドルキリ保全林と接する公園)の近くにあるバンドンの田舎街、滝などがあります。都市の人口の4分の1が、これらの高地に住んでいるエデ族やベト族で占めています。

4月から7月の間は、レモン色の蝶々が花びらのようにふわふわと飛んでいるところを見ることができます。

フランス植民地時代、街は栄養が豊富に含まれた赤土で栽培されるコーヒー、紅茶、ゴム、硬材の販売で繁栄し、周囲の村々で行われている植林活動の中心地でもありました。植林のオーナーや植民地支配人は、象やヒョウ、トラの狙い撃ちを娯楽としていました。数年後、アメリカ軍がフランス軍のベトナム支配を引き継ぎましたが、その時には、すでにベトナム軍が侵攻したあとでした。バンメトートをホーチミン運動の最初の「ドミノ(植民地)」として陥落させたのです。

プレイクも同様に観光する場所はあまりありませんが、戦時中はベトナム軍によりアメリカの空爆キャンプハロウェイが攻撃され、ベトナム戦争の引き金になったプレイク事件で有名な場所です。過去に数回、反政府運動の中心地として利用されました。現在は遠く離れた場所特有の陽気な雰囲気に包まれていますが、1975年に南ベトナム軍によって攻撃にさらされ壊滅的な被害がでました。敵軍の攻撃が終了すると、都市は早急な復興作業が必要になる程何もかもが破壊され、その後にソビエト連邦の支援により復興が急ピッチで進められました。1980年代の復興活動では都市開発が進んだことや、中心部の高山地帯からのアクセスの便利さを考えると、プレイクへの滞在を考える人も多いでしょう。周囲にある少数民族村への見学には、ガイドの付き添いが必要になりますが、そのアクセスの近さからプレイク自体も便利な場所として観光客に利用されています。ガイドや公的機関(政府)の付き添いなしで少数民族村を探検したい場合は、1時間ほどかけて50km北に向かえば、コントゥム省という場所があります。そこでは、観光に関しての規制がなく、ガイドなどの付き添いなしで観光が可能です。