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ベトナム各地の街情報と就職事情

ホーチミンの街と就職事情

ベトナムを代表するホーチミン市は、ベトナム最大の街であり商業の中心地となっています。1986年のドイモイ政策による経済変化の結果、都市が活性化されました。サイゴン川のほとりにあり、人口約800万人が住んでいるこの街は、旧名サイゴンとしても広く知られています。戦争跡地のイメージから、シンガポール、バンコクそして他の南アジア勢力国に劣らない大都市に変貌を遂げ、。高級レストラン、リゾートホテル、派手なバーやクラブ、高級品の輸入販売店などが経済を大きく成長させました。フランス植民地時代の異国情緒溢れる景色から、シンプルなソビエト風の住宅、古代からのパゴダ(寺院の塔)も観光客を引きつけ、経済成長の追い風となっています。

しかし、ホーチミン市では未だ食べ物、住宅、仕事に関しては経済的に豊かな国民が少ないのです。ストリートチルドレンは、本、ハガキ、宝くじ、ライターを観光集団を探して歩き回り、手足がない物乞いは運転が雑なトローリに乗り込みます。町では、財布を盗もうと目を光らせているスリがうろついています。物乞いの数は徐々に減ってきていますが、観光客はその現実を受け入れなければなりません。

ハノイをロマンチックな魅力溢れる都市とするなら、ホーチミン市はその反対で、見るもの聞くものすべてが騒がしくギャンブル色が強い都市となります。急激なスピードで新しいホテルなどが建築され、目まぐるしい発展を遂げています。

おびただしい車とマイクロバスが、最先端のホンダSUVと肩を並べ並木通りを走行しています。この混沌とした中で、地元の人々は生活しているのです。スマートに制服を着こなす学生は、街路脇にいる宝石の押し売りをする人の前を通り過ぎていきます。デザイナーブランドのジーンズを着た10代の若者がキャッキャと携帯電話で話す最中、買い物を終えた女性が紫外線や埃を防ぐためにギャングスターのようなバンダナをつけオートバイに乗っています。ホーチミン市を楽しむコツは、その慌ただしさを受け入れることです。市場で販売される豚を積み上げたオートバイや、麺を宣伝するために竹のカケラをトントン叩きつけて注意を引こうとする少年も、そこらじゅうで目にすることができます。

ホーチミン市は24区に分かれています。観光客は第1、3、5地区より向こう側へはあまり観光に行きません。さらに、他の観光都市とはかなり対照的なフーミーフンは、シンガポールにもないような綺麗な街で、別名第7地区の南サイゴンと呼ばれており、近年海外駐在員が増加しています。ホーチミンで働いている日本人の多くは第1区で生活しており、家族連れの日本人は、日本人学校がある第7区で生活している人が多いようです。 ホーチミンで生活してみるのも、楽しそうですね。

ホーチミンの就職事情としては、日系企業だけでなくベトナム企業や日本以外の外資系企業でも仕事はあるのですが、英語がネイティブレベルでないといけなかったり、日常会話以上のベトナム語力が必要であったりとハードルは高いです。そのため、日本人であれば日系企業で就職することが多くなります。職種は市内ですとオフィスワークか営業職が、ホーチミン郊外や近郊の省(ビンズン省やドンナイ省など)での工場勤務がメインとなります。

ホーチミンで働く日本人、ベトナム人を日本で雇う企業も増えているそうです。
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第1地区のサイゴン川のほとりに位置する本土の中心地、Ben Nghe 橋の川の合流により形成された土地にあります。古くからこの土地はフランス領でしたが、未だサイゴンとして広く知られています。ドンコイにはそのような歴史的背景があり、植民地の面影や美術館が数カ所あるT型の通りは、レ・ズアン通りと呼ばれています。しかし観光地の多くは、お互いに遠く離れた場所に点在しており、観光客は場所を点々としなければなりません。これらの施設の中には、アメリカ戦争に特化した美術館がいくつもあります。

戦争関連の場所をメインに回る観光客がおり、統一会堂のような歴史観光スポットにはたまらない場所となっています。まだ、本土は数世紀に渡るアメリカの介入より以前から存在していましたが、全ての都市が飛行機、タンク、および大砲を中心に発展したわけではありませんでした。ノートルダム大聖堂や市役所のようなフランス植民地時代の名残が残る建物の中でしかし、市中のうっとりさせるような礼拝所があるクアン・アム塔と、福海寺(玉皇殿)のような華々しい歴史ある建造物と比べると新しい外観です。もし静かな場所に行きたければ、比較的静かな植物園に行ったり都市の歴史美術館に戻ることもできます。

観光し疲れたら、市街からそう遠くない水田やビーチ、田舎に行ってリフレッシュできることもホーチミン市の魅力の一つです。市外で一番人気な旅行先は、クチの地下道です。この周辺の住民はアメリカに干渉されることはありませんでした。タイニン市にあるトンネルは、その地の高台教(カオダイ教)の大寺院ツアーでよく組み合わされます。ミトー市のメコンデルタは丸一日を使えばプチ旅行をするのはかなり簡単です。

灼熱のホーチミン市を訪れるベストシーズンは12月から4月までの乾季です。5月から11月までの湿度の高い時期には、旅行にはあまり影響はないですが、かなりの頻度で熱帯嵐が起こります。平均気温は一年中26℃から29℃を上下しており、3月、4月、5月が最も暑い時期です。

ホーチミン市の初期の歴史の知識は、大まかには以下の通りです。1世紀から6世紀の間に扶南王国の支配下になりました 。扶南王国はその後、プレアンコールチェンラ帝国のカンブジャ人により合併されましたが、これらの帝国が、この土地がのちに大都市 ホーチミンとなろうとは夢にも思わなかったのです。

クメール漁師はこの地でなんとか生計を立てていましたが、人の居住地としては条件の良いデルタ湿地帯北部の平坦な土地に集落を作りました。元々はプレイノコールと呼ばれ、メコン川下流のカンボジア船の保管庫として、17世紀までにはマレー、インド、中国から来た商人の取引地や駐屯地として栄えた場所でした。

そのような劇的な変身は北部の人々から注視されるようになったのです。18世紀までに、ベトナムはチャンパ王国を支配し、このエリアはグエン王朝により占領されました。新しく名付けられた国名 サイゴンは、 ”kapok tree”(カポックノキ)というベトナム語の言葉から由来されていると思われます。西山党の乱を受け、1772年に阮王朝が領地全体を八方形の城壁で囲みサイゴン城を築き上げました。ソンタイ兄弟を下した軍隊はベトナムの支配を密かに進行させるため、数十年に渡りベトナムを支配下に置こうと密かに企んでいたフランスの支援部隊を味方につけました。ついに1861年に、フランス宣教師の迫害を口実としてサイゴンを抑圧し、1862年のサイゴン条約ではフランス領コーチシナ(ベトナム南部の呼称)と宣言しました。

ホーチミン市にはフランス植民地時代の特徴や面影が残っています。橋は取り壊され、湿地帯は乾ききり、蒸気機関車や洒落た名前がつけられた大通りのようにフランスを連想させるような名前や場所が増え始めました。新たにヨーロッパ風のカフェやブティックができ、ベルモットを飲み、バゲットを食べ歩く市民が多くなりました。1930年代に訪問したサマセット・モーム(フランス出身の作家)は「陽気で笑顔に溢れた小さな地方の町」を思い出したそうです。フランスの植民地サイゴンの人々は都市の急速な拡大の最中、ベトナムのゴムと米を輸出にメリットを見出し投資をしました。

一方でフランスの定めた規則は、非常に厳格なものでした。1920年代から1930年代を通じて否定的な意見が目立ちはじめましたが、国家主義者のデモ運動は第二次世界大戦の南アジア以前にはあまり目立っていませんでした。1945年のポツダム会議では、英国陸軍が南ベトナムにいる日本軍の軍事縮小をさせる命令を課しました。サイゴンに到着した2ヶ月後フランス軍の軍事力が再び勢いを増し30年にもわたる戦争をはじめたのです。サイゴンは1954年にジエンビエンフーでのフランス軍が降伏を宣言した反フランス戦争の間は全く行動を起こさなかったのです。

1955年、ディーム大統領により南ベトナム共和国の首都であったサイゴンは、米兵の職務撤退に伴い、たちまちベトナム戦争の要でありドンコイ沿いの安いバーが多く集まる、休養の地(当時ツードとして知られていました)となりました。学生や修道士に対するデモ運動への共産主義者の爆撃など混沌がありましたが、サイゴンには良き時代もありました。数百のアメリカ人を味方にした起業家が多く生まれ、儲け仕事は1973年のアメリカ軍撤退によって無くなり、2年後、大統領宮殿の目の前まで迫るほどにホーチミン運動が広がり、共産主義者は鎮圧されました。それから1年も経たず、サイゴンは、新たにホーチミン市と名付けられました。

戦争の年が始まりました。アメリカ軍による広範囲の爆撃により、比較的安全な都市でも何百万人もの難民が避難を強いられ、経済と社会全体に打撃を与えました。数百万にもぼる人々がボートで国外に逃亡したのです。

1986年〈ドイモイ氏により経済の自由化が施行され、市場経済が再導入、幸運なことに経済上昇の兆しが見えました。二十年後の現在、都市の再建が最優先され住人はこれまでになく明るい未来を期待しています。

メコンデルタの街と就職事情

地理の教科書にある写真のようなメコンデルタの果樹園や水田、沼地を訪れると、非日常的な風景に惹き込まれます。ホーチミン市から平地が続き、タイ南部の海岸までの地域がメコンデルタとなっています。その広大な土地からの穀物の収穫量は、国の年間穀物総収穫量の3分の1を占めています。このことから、農業の奇跡と呼ばれるベトナムの稲作地帯です。米は特産品ですが、ヤシの木、果樹園、サトウキビ畑の栽培も発展しています。また、円錐の帽子をかぶった農民が栄養豊富な土壌で育つ穀物を耕す光景は、ベトナムで先祖代々受け継がれてきた光景の1つです。ベトナム人にとって、この地域はチュウロンとして知られており、数多くの洪水に耐えた水田では千年祭が開催され、メコン川周辺の9つの属国の伝話9匹の竜の元になりました。

意外にも、農業が栄えはじめたのは最近だったのです。17世紀の終わりまでカンボジアの支配下に置かれ、地域は少数のクメール王国の人々の居住地となっていました。彼らは湿地帯に拠点を置いていましたが、追い出されてこちらにやってきたのです。18世紀には、フランスが支配していたにもかかわらず、グエン王がデルタを統治するまで着実に勢力域を広げました。その栄養豊富な土壌が大きなメリットを生むことに勘付き、フランスの植民地支配者はベトナムの小作人を駆り立て、湿地の水田などを耕させました。小作人は、植民地政府が米の収穫にお金を注ぐことに気付いていたため、これに合意しました。皮肉にも、米の収穫で得た資金は、フランス軍の植民地化を進める資金獲得の為に使われル事になりました。小作人は大金をもらえるメリットに魅力を感じ耕作に飛びついたのです。さらに皮肉なことには、フランス軍にも提供されていた米が、フランス軍を打倒すべく立ち上がったベトナム軍の戦力資金ともなっていました。のちに極秘の米の保存庫を保持していたベトコン氏は、アメリカ軍に保存庫がある地域以外のエリアを空撃させるように仕向けたのです。

メコンデルタへ訪れると、異国情緒の豊かさが大いに感じられるでしょう。水牛の背中に乗っている子どもや、女性が伝統的な白のドレスを着て田舎の小道を自転車を運転する情景が日常生活にあります。耕作人はすぐ稲作農業に取り組み始め、市場の販売業者は、果物が積み重なっている車を見て笑みを浮かべていました。鮮やかな黄色の芳香木が道路沿いで乾燥され、夕暮れ時の動物保護区域ではコウノトリの群れが飛び回ります。クメール僧がパゴダ寺院の影をゆっくりと歩いています。艦橋で子供が無邪気に走り回ったり、川床のデルタの複雑に入り組んだ水田でボートを漕いでいます。

かなり離れた場所にあることから、あまり観光地として有名ではありませんが、デルタ地帯には観光施設のある町が多くあります。ミトー市はボートを使い旅行するには最適の都市で、1日で巡ることができるホーチミン市とはアクセスの相性が抜群です。デルタ最北端の国 ティエンザン省には食欲をそそるグルメがあり、ミトー市からのんびりとした雰囲気のベンチェ省や果樹園は目と鼻の先にあります。カオラインは鳥好きにはもってこいの場所ですが、昔からずっと色褪せない川と色鮮やかな花の栽培を行っているサデクにはさらに見所があります。道を下った先にもう一つボートでの旅行にいぴったりのビンロンと呼ばれるところもあります。

観光客の多くは、立派なホテルやレストランを最大限に利用し、また近くにある水上マーケットに繰り出す前の休息の場所としてカントー市で1日から2日を過ごします。カントー市から、周囲にある沼地のデルタへボート探索ができるカマウ省 デルタのふもとにはふと足を止めてしまうような魅力があります。 クメール族の本拠地であるソクチャン省で毎年11月から12月に開催される華やかなオク・オム・ボク祭に出くわしたら旅の良い思い出にになります。そこでは、地元のクメール人がロングボートレースを開催しています。一方で北カントー省では、サム山の南部広がる活気溢れる町チャウドクの広大な平野が観光客を迎えます。カンボジアとの国境の始まりであるメコンデルタには、ボートでプノンペンへ向かう観光客が絶えず、帰国する前にここで数日を過ごす人もいます。ここからヒューコック島からカンボジアのシアヌークビルやバイスバルサ湾沿いに旅行ができるため、人気度が高まっています。

洪水を考えると、デルタを訪れるベストシーズンは、おそらく12月から5月にかけての乾季でしょう。

メコンデルタ周辺への工業団地は少なく日系企業の進出もあまりありません。日本からの駐在員として働いている日本人はいるようですが、数えれるほどしかいません。現地採用スタッフとして働くにはハードルが高いエリアです。どうしてもメコンデルタが良いとなれば、バイクで3時間ほど離れたホーチミンで働いて週末だけ過ごすという形が現実的です。

カントーの街と就職事情

カントー省は人口数百万人を誇るデルタ最大の町です。商業の盛んな地域ですので、ショッピングなどをして楽しむことでデルタの静かな隔地で過ごした後の良いリフレッシュとなります。しかし、町は決して活発とした印象ではありません。 カントー省には急激な発展による都市開発で過剰建設が行われ様々な負担がのしかかっています。一方でその経済効果は沿岸部にまで影響が押し寄せ、予想していなかった嬉しい経済効果が生まれました。

カントーとハウジアン川の合流点は、市内の主要な商業の中心地であり交通機関の出入り口です。商用空便用に元アメリカ軍基地で使用された場所の利用が再開されただけでなく、デルタ最大の橋の建設を完了させた力の入れようから、デルタが政府にとって将来の都市開発計画に重要であることがわかります。

しかしカントー省は、単なる商業の中継地ではありません。デルタで最も良いレストランのいくつかがここにあるからです。さらに、栄養豊富なカントーの稲作地は決して遠くはなく、運河と川の合流地点はデルタで最も有名な水上マーケットとなっています。カントーは、北ベトナム軍に最後まで戦い続けた都市でした。1975年5月1日サイゴン陥落の日に国が再統一されたのです。 

ボートでの旅行といえばカントーへの観光が有名ですが、ここでは観光を楽しむことができ良い気分転換になるでしょう。

ホーチミン市の南西部では、おびただしい数のバスが都市開発中の町から長閑なメコンデルタ上部まで走行しています。デルタの持つ魅力はあまり発信されていませんが、先祖のお墓が点在する美しい草原や稲作地を見ると瞬く間に知られるようになるでしょう。

ホーチミン市の70km北には、ティエンザン省やメコン川最北のほとりに佇む和やかな市場のあるミトー省があります。

ミトー省からホーチミン市はアクセスが良好で、デルタへの日帰り観光客が多く立ち寄る場所となっています。多くの観光客が押し寄せた結果、強引な押し売り商人が、到着したツアーバス一つ一つに群がっていることがあります。それでもやはり、ホーチミン市の混沌とした場所を体験した後にこちらに来るとかなりリラックスできます。22万人以上が暮らしているとは思えないような人気がない通りが多く、ボートに乗り裏通りを探検するなど喧騒から簡単に離れることができます。
この地で就職するとすれば、ベトナム企業くらいしかありません。外国人が働くとなると、ホーチミンと比べ格段に給料水準が低くなりますので、ホーチミン7区などで仕事を探せばギリギリ通えると思います。

この街の歴史を考えると、観光客のこの地域への殺到は自然なものです。17世紀後半の明王朝の崩落により、フェルモサ(現在の台湾)から逃亡してきた移民が、以前からクメール人の支配下にあった地域への侵略を目論んでいたベトナムの人々と力を合わせこの地域に殺到したのです。

2世紀後、ベトナム戦争で継続的に町に軍が置かれている間、地域の栄養豊富な稲作と果物を探していたフランス軍がこの地に守備隊を置き、豊作物を運ぶため廃止されていた鉄道線をサイゴンまで伸ばす価値があると判断しました。現在、賑わっている市場を歩くだけでわかりますが、ミトー省はこれまでより商業において重要性が際立っています。

川の賑わい状況や優雅なサイパンから広範囲にわたり未塗装での貨物船が走行しているのが西部のラックホン公園から最もよく見えます。この公園ではデルタで最も個性的な船先に猫の目が描かれているボートが見れる場所です。週末の夕方には、街角は行き来する家族で賑わい、風船、ポップコーン、熱帯魚まで売っている人があちこちにいます。夜には、若いカップルたちが身を寄せ合いながらオートバイに乗り、かつてミソーで学問を学び反フランス軍に対抗した19世紀の英雄グエン・フー・アンの像が見下ろす街で少年たちはシャトルコックフットボールをし遊んでいます。

日帰り旅行をする人は、メコン川のティエンジアン省の島々をツアーバスやボートで旅行し船酔いするなど気分が悪くなる人が多いため、ミトーをあまり観光しません。メコン川上流部にあるカイビーでも同様です。11時ごろになるとホーチミン市からバスに乗った観光客が水上バスのボートツアーのために村に殺到します。地域を組み合わせて旅の予定を組むことは楽しく気分転換になりますが、少なくとも1泊は必要でしょう。カイビーとは対照的にドンサム集落の一風変わったヘビ園では観光客はほとんどいません。

フーコックの街と就職事情

タイ湾のカンボジア沿岸からわずか15km に位置するフーコック島は、アラジンの魔法のランプから登場するジニーのように細長く南端に伸びる島です。事実上、10年以上前まではあまり人々に知られることがありませんでしたが、現在ではニャチャンをベトナムのトップ観光地へ成長させようと計画されており、その柔らかい砂のビーチやヤシの木、澄んだ水に魅せられ、多くの観光客が足を運んでいます。カンボジアはこの島を コトラル と主張していますが、全長46kmのベトナム所有地で、沿岸沿いでは最大のアイランドとなっています。フーコックはハティエンからたった45kmの場所に位置しており、120km南下したところにはラックザーと呼ばれる港湾都市もあります。

地形や植物はデルタの他の地域とはかなり違う印象を受けます。フーコックはベトナムの歴史的有名人にとって条件の良い隠れ家でした。18世紀後半、阮王朝がタイソン兄弟からの攻撃を逃れるためこの土地を支配しました。1860年代に阮忠直も同様にこの地を統治しました。現在、800億人以上の人口と大量の現地特有の犬が(背筋の毛が立っている犬ですぐにわかるでしょう)が島に住み着いています。フーコック島の黒胡椒や、オリーブオイルとされている魚醤油(ヌオック マム)が特産品とされており有名です。

 

ムイネー村のように、フーコック島は、ホーチミン市に住んでいる海外からの移住者にとっての格好の居住地となっています。島の中心部にある空港の国際線がほぼ開通工事が完了し、2012年にオープンしました、この地域の将来は明るく感じます。都市化に伴いリゾート施設やバーが急激に増加し、現在道路は封鎖されていますが、フーコック島は未だパイオニアの向かう先という印象が残っています。ここから各地へ移動するには、トラックに乗せてもらい舗装されていない道を渡ることでしか交通手段がありません。ビーチは基本的にイベント開催などであっても無料で開放されています。雨季 (5 月~10月) を通して、フーコックは比較的穏やかな場所で、部屋の料金に関しては価格交渉が行いやすくなります。ピークシーズン (12 月–1月)には、宿泊料金は急激に上昇し混雑が予想されるため、事前予約が必要となります。

フーコックは成長途中のリゾート地なのでホテルが続々と建っており、外国人が働く場合はホテルなどのリゾート施設や観光産業になります。もちろん英語は必須となります。

フーコックは探検に最適な島で、街の渋滞もなく簡単にバイクで巡ることができます。現時点で島の70%が森林で占めており、北の丘は特に自然が豊富であることが特徴です。ここで探検をし帰るときには、道が未舗装のため赤土まみれになるかもしれませんので、服装などで対策をしましょう。運転中のヘルメットの装着は必須です。フェイスマスクをするのも良いでしょう。

特に島の北部では、唐辛子の植林を目にすることがあります。地元の人だと3メートルの木を登ることができますので、胡椒がなる木などはすぐに分かります。現地の人は観光客を喜んで歓迎し周辺を案内しています。また、フーコックの中心部には2つの渓流: ダバン渓流とチャン渓流が存在します。苔で覆われた大きな岩がある渓流では、1月から5月の間の乾季は、ぶどうの木のつるや小さな滝が乾ききってしまうため、あまり旅行にベストなシーズンとは言えません。

フエの街と就職事情

未だに王朝時代の装備品がたくさん存在しますが、フエはベトナムで最も魅力的な都市の一つです。少なからず1802年から1945年までの国家首都としてのステータスのおかげもあり、歴史や料理巡りなど独特の体験を前面に押し出しています。グエン朝はもう存在しませんが、フエは威厳のある雰囲気が漂っています。ベトナムの中ではフエの人々はやや教養があると考えられており、未だに詩人や芸術家、学者や知識人を輩出している都市で、他よりこの地域には若者がかなり多く集まっています。

徐々にその観光地としての人気を取り戻しつつあるフエは、数日あれば難なくその歴史的背景を学ぶことができます。フエは3つの地域に分けられ、それぞれが個性的な特徴を持っています。19世紀にフォン川北部のほとりに要塞や、一時期は宮殿やそれぞれの居住区の区切りをつける格子を作っていました。ドンバ運河からフーカットまで地元フエの25%の人がボートで入港するため、ショッピング地区や中国の議事堂、パゴダス寺院のある地区は人で混雑します。かつてヨーロッパ都市と呼ばれ、南香江のほとりとヒューカム運河の間にあるデルタは、現在フエの行政の中心地となっており、ほとんどのホテルや観光サービスがそこにあります。

松の木がたくさんある南部には、グエン王が作った壮大な王の霊廟があります。曲がりくねった道は最終的に香江に集まっており、ティエンムー寺という7階建ての塔もあります。時間があれば、トゥアンビーチまでサイクリングして楽しい時間を過ごしてください。フエは軍事境界線(DMZ)のツアーの出発地でもあります。

フエは必然的にベトナムの有名な観光地になると期待されています。宿泊施設の種類とそのレベルや、有名なご当地フードを提供するレストランの接客水準も、平均より高いです。それにもかかわらず、観光客の多くはかなり早い段階でフエから他のエリアに移動しており、その理由は価格の高さや、不安定な天候にあります。ベトナムで最も降水確率が高いフエは、毎年10月から12月まで数日に渡り洪水が起こり街は大混乱です。

現在フエがある場所は、1306年までチャンパ王国に属していた地域で、その一部の現在のダナン北部が平和条約の下でベトナムの王女に譲渡されました。最初にこの地域に定住したベトナム人が、ホアチャン(現在のフエ)と呼ばれる場所の近くに行政の中心地を築き、1558年にグレン王がベトナム南部を支配しました。その後200年続く王朝です。17世紀後半に、グエン王は現在は主要な街であり文化の中心地である場所(フースアン)に要塞を移したあと、その地域はタイソン王クァンチュンの下で都市となりました。

しかし、本当にフエを有名にさせたのはベトナムの次の王、グレン王朝を創設したザーロン帝でした。1802年から、首都をタンロン(ハノイ)から王朝によって改名された都市フエに移し国を統治しようとしていました。ザーロン帝はフランス軍から受けた支援で借りがありましたが、彼の帝国都市は中国的な考えを持っており、他国にはオープンではなく閉鎖的国家であったのです。独自の地区と管理制度が存在しました。

グエン王は儒教者で保守的な統治者であり、フランス軍に反抗まではできないものの西欧人に疑いの目を向けていました。1884年にフランス軍が北西のフエの存在を聞き入れ、名ばかりの統治者を抑え1885年に支配しました。グエン王朝の元でフエは芸術、学問、仏教学の有名な中心地になっていましたが、過剰な建築計画と贅沢なライフスタイルが税金にしわ寄せをかけていました。フエはバオダイ王が1945年に王位を破棄したと同時にベトナムの都市ではなくなりました。その2年後、大火事が寺や宮殿を消失させてしまったのです。19世紀初期には社会的・政治的不満が爆発し、反植民地派のエリートが率いるデモ運動が街を陥落させてしまったのでした。1960年代から人々に不満が溜まっていたのです。1963年にその緊張がついに爆発し、ゴ・ディン・ジエム首相が導入したカトリック制度に猛反発した何百人もの仏教主義者が軍隊と衝突しました。

政府軍がその年の終わりに仏教デモ運動集団に反対し仏教の聖職者と運動に関与したと思われる活動家の検挙に乗り出しましたが、これが引き金となり、修道士や修道女による焼身自殺にまで事態をエスカレートさせました。

1968 テト攻勢により北ベトナム軍 (nva) 25日間の都市を支配し、フエは分断されました。共産主義者たちは131日未明にフエに侵入し、城砦の上に旗を掲げ、瞬く間に都市全体と居住地を支配しました。帳簿リストを利用し政府職員、学者、司教、アメリカ人、外国人支援労働者の支援者を探し始めました。300人近くが後に銃で撃たれ亡くなったり生き埋めにされました。しかしこれだけでは終わらなかったのです。それから引き続き起こった500人の北ベトナム人への暴行、その後の衝突でベトコンにいた384人の南ベトナム兵隊と142人のアメリカ人兵隊が亡くなり、少なくとも100人の市民も命を落としました。フエはアメリカ(NVA)軍の攻撃により要塞が陥落し、ジャーナリストのスタンリー・カーノウ氏がこの戦争を”最も悲痛な戦い”と呼んだように、侵略から10日後まで共産主義者は家から家を探し回ら流アメリカ軍に追いやられていました。その7年後の1975年3月26日、アメリカ軍はフエを最初の主要な街として解放を行いました。

フエ再建という大きなタスクは、20年以上にわたって現在も行われていますが、ユネスコ世界遺産リストとして上がった際には宮殿を改装し文化芸術と技術スキルの復活まで幅広い計画のために様々な国から資金を募りました。

フエは観光地なので就職先を探すことは難しく、車で1時間ほど離れたダナンで探すことが望ましいです。

ホーチミン市とブンタウ

ホーチミン市の車のクラクション音や強引な押し売りなどの喧騒から距離を置きたくなったら、1日を使い遠方に足を延ばすのも良いでしょう。ベトナムの公共交通機関は場所によっては回転率が遅く不規則ですので、日帰り旅行にはツアーガイドをつけることで、そこでの過ごし方のアドバイスをもらえたり、時間を節約でき効率よく予定のアレンジができます。都市郊外で人気の観光地には、一生記憶に残るような光景がいくつも存在します。クチの地下道は、かつてベトミン運動支持者の隠れ家でもあったのです。のちにベトコン中核グループの仲介地となった場所でもあります。タイニンには、独特な雰囲気を持つベトナム新興宗教「カオダイ教」の総本山が建っています。この2つは1日で見て回ることができますが、(ほとんどの人がそうしています)ただし、1日のほとんどを道端で過ごすことになりますので、身の回りの準備を万全にしてから出発しましょう。 

もう1つの楽しみ方は、都市の端にあるウォーターパークに行くことです。ホーチミン市の慌ただしさから一変し長閑な雰囲気が漂っており、気分転換には最適な場所となっています。ベンタウ周辺のビーチに降りる国道51号線から、メコン川が少し見ることができる南西部の都市ミトーに降ります。ビエンホアへ通り抜ける新しい高速道路まで北上し観光することは、ホーチミン市の混み具合や暑さを体験した後には良いリフレッシュとなります。

ホーチミン市からは水中翼船でアクセスができるため、ブンタウは日頃からストレスが溜まっている現地の人たちの週末の拠り所となっています。衛生上良くない箇所が見受けられますが、総じてみると、ブンタウは魅力的な場所です。”ボートの港”と称される通り、錨型をした岬から、サイゴン川の入り口まで、ホーチミン市は125kmに渡り南部に広がっています。かつては繁栄期の南フランス リビエラ地方を連想させるビーチリゾートとして発展した街でした。現在は海洋油の産業と近年徐々に発展しつつある漁業で、より商業中心の都市へと成長を遂げています。ホーチミン市の住民は現在も週末になると、ここに集まりのんびりと時間を過ごします。地域の人は町のビーチでの遊泳が好きですが、近年は清掃活動が行われているにも関わらず、景観は未だ改善の余地があるのが現状です。しかし、バイソウ沿いの遊歩道は滞在期間の長い駐在員には”ブラックビーチ”として知られており、夕方の散歩や海産物の軽食になる食材が豊富に採れる場所として有名です。

15世紀初頭には、ポルトガル船が市内の港の停泊地を不法に利用していたと考えられています。20世紀の変わり目には、この地域はキャップサンジャック”(ブンタウの旧名)として知られ、サイゴンに住んでいる人にとっては格好の気分転換の場所とされていました。政府は、フランス植民地時代の大邸宅をヌイロンやヌイニョという沿岸沿いの2つの丘に移行し始めました。ベトナム政治はフランス軍に完全に支配されていたのです。彼らが撤退し、共産主義政府が政権を握ったその矢先、1970年代後半にボート乗船客を乗せた水中翼船が失踪してしまったのです。

中部山岳地帯

ベトナムで大雑把なトラック運転を避けたい場合には最適な場所です。多くの旅行者は、東海岸に沿って旅行をし、ビーチや山が好きな人は、観光スポットを求めより広大な北部に向かいます。中心の山岳地帯は北部の山々の綺麗な景観に溶け込んでおらず、山のいくつかは枯れきっていますが見るものはこれだけではありません。壮大な滝や霧で覆われた山、広範囲にわたる集団居住地があり、カンボジア西部の国境に向かうと、高くそびえ立つ山々や高原が広がっています。アンナン山脈や国道一号線の中心からハノイと北部に向かい細く伸びるダナンまで広がる中心部の高山があります。この地域の栄養豊富な土壌がコーヒーやお茶、ゴム、絹や広葉樹など自然の資源を生み出しています。

全ての高山がそうではありませんが、経済計画で植地用の場所とされている場所もあります。サイゴンの怠けた大富豪やフエの貴族狩りが行われた中で、原生林には生き残ったゾウや熊、テナガザルなどの野生動物が生存しています。

多くの登山者や観光客の主な目的はダラットに向かうことで、その途中で見えるかつてのフランス領の山は遠目から見ると霧がかっておりかなりロマンチックに見えます。都市そのものは心地よい気候で、見るだけでも楽しめる植民地時代の建造物や、写真映えするバイク、フルーツと野菜が山積みになった市場など魅力にあふれた地域です。

ダラットから北に向かい、少数民族村を囲む透き通るような水が、美しいダクラク省まで続きます。そのあとは広大でひらけた景色よりも、観光地に人気がある高山の街が連なります。最初に見えるのはバンメトートという街で、その広い土地を考えると驚くほど混雑する場所です。都市そのものはあまり観光するところではありませんが、周囲にある少数民族村は見応えがあります。緑道国立公園への入り口でもあります。

ブレイク空港から北部は観光地としては適していませんが、魅力的なジャライ族とバナール族のような少数民族村が存在します。さらに北上するとコントゥム省が見えます。3州の首都の中で最もずば抜けて魅力的でリラックスした雰囲気がある場所です。中心都市から3つのバナール村に向けて夕方に散歩に出かけたり、かなり距離はありますが、他のいくつかの少数民族を渡り歩くこともできます。

ジャライ族とバナール族の居住する場所は、少数民族の住む高山が多く集まる場所です。

俗世から切り離された高山の住人が印象的で、現地で作られるボンボン帽子、スカーフ、羊毛のジャンパーは保温性に非常に優れており、その地域での旅行ではこの村の観光は確かに記憶に残るものとなります。しかし、多くの民族がハノイとの合併により、村の個性を保つことに苦戦しています。各国の政府や人権グループ(再統一についての記事をご覧ください)からの批判が21世紀の変わり目から出ており、政府の民俗村とハノイとの合併には批難が集中しています。少数派の権利問題についてには敏感で、ベトナム政権は1993年にこの地域のみで外国人を受け入れました。私たちが主要都市を自由に旅行している間にも高山にある少数民族村への旅行が難しくなる可能性があります。ほとんどの場合、民族村へは地域の観光局を通す必要があります。(気前よくお支払いを)どの地域でも現在の規制、特に村での宿泊については今一度確認を行ったほうが良いでしょう。

高山での体験はいつ訪れるかによってかなり変わります。11月から4月までは乾季です。このときは豪雨が中心部から離れた村にアクセスできなくなるほど降る時期ですが、最も雰囲気が良い時期である湿度の高い5月から10月に行くと良いでしょう。

バンメトートの街と就職事情

バンメトートはダクラク省の首都で、人口30万人の街です。都市自体はそれほど見て回る場所はなく、急激な都市開発によりスプロール現象(都心部から郊外へ無秩序、無計画に開発が拡散していく現象のこと)が発生しました。その結果、町中に現代的な建物が並んでいます。ジープ(四輪駆動の自転車)や、レズアンの戦勝記念塔は街に広がる道路の終着地となっています。高級車がクラクションを鳴らし走行していることからも分かる通り、経済的に裕福な街です。しかし、このように都市改革の影響を受けているバンメトートであっても、ここではコーヒーとゴムの生産が盛んに行われていますが、日本人が就職できそうな場所はありません。また改革の波が他の地域から押し寄せてきた影響で、改革は都市の外側から中心に向かって行われており、いまだに驚くほど汚れている場所があります。バンメトートの居住地は少数民族村の郊外に位置しています。北部郊外の街 アコドン村(現在も高床式ロングハウスに暮らすエデ族が居住する村)に古くから存在する少数派民族のコミュニティ(ほとんどがエデ族)やヨックドン国立公園(カンボジアとの国境近くにあるモンドルキリ保全林と接する公園)の近くにあるバンドンの田舎街、滝などがあります。都市の人口の4分の1が、これらの高地に住んでいるエデ族やベト族で占めています。

4月から7月の間は、レモン色の蝶々が花びらのようにふわふわと飛んでいるところを見ることができます。

フランス植民地時代、街は栄養が豊富に含まれた赤土で栽培されるコーヒー、紅茶、ゴム、硬材の販売で繁栄し、周囲の村々で行われている植林活動の中心地でもありました。植林のオーナーや植民地支配人は、象やヒョウ、トラの狙い撃ちを娯楽としていました。数年後、アメリカ軍がフランス軍のベトナム支配を引き継ぎましたが、その時には、すでにベトナム軍が侵攻したあとでした。バンメトートをホーチミン運動の最初の「ドミノ(植民地)」として陥落させたのです。

プレイクも同様に観光する場所はあまりありませんが、戦時中はベトナム軍によりアメリカの空爆キャンプハロウェイが攻撃され、ベトナム戦争の引き金になったプレイク事件で有名な場所です。過去に数回、反政府運動の中心地として利用されました。現在は遠く離れた場所特有の陽気な雰囲気に包まれていますが、1975年に南ベトナム軍によって攻撃にさらされ壊滅的な被害がでました。敵軍の攻撃が終了すると、都市は早急な復興作業が必要になる程何もかもが破壊され、その後にソビエト連邦の支援により復興が急ピッチで進められました。1980年代の復興活動では都市開発が進んだことや、中心部の高山地帯からのアクセスの便利さを考えると、プレイクへの滞在を考える人も多いでしょう。周囲にある少数民族村への見学には、ガイドの付き添いが必要になりますが、そのアクセスの近さからプレイク自体も便利な場所として観光客に利用されています。ガイドや公的機関(政府)の付き添いなしで少数民族村を探検したい場合は、1時間ほどかけて50km北に向かえば、コントゥム省という場所があります。そこでは、観光に関しての規制がなく、ガイドなどの付き添いなしで観光が可能です。

ダラットとその周辺

ダタンラの滝は、地域で最も印象的なものの一つであり、簡単に近くの湖トルエンタムへの観光と組み合わせることができます。コホ族では、ダタンラは、葉の下の水を意味し、この場所を象徴させる言葉となっています。15分ほど生い茂る森林を探検しながら滝の傾斜を下ります。滝自体はスリリングではありません,。泥が混じった水が木造の歩道橋へ流れ落ちる様はあまり写真映えしません。もっとも有名なプレン滝は街から6km離れた所にあり、地域の人たちにかなり人気ですが、あまりお勧めできません。熊やシカ、猿を含む動物が劣悪な環境で飼育されているからです。

チキンビレッジは、他のベトナムの村と同様、喧騒から離れた長閑な雰囲気で、村の中心には誇らしげな5m強の鶏の像が建てられています。織物を買う買わないは関係なく、女性たちが自身の体に紐を固定して機織り機を使い織物を織るところを見学するのも面白いでしょう。許可なしで小さな丘や平原に立ち入ることも可能です。

チャイマット村の近辺は、ダラットからわずか7kmで、小旅行をするには最適な場所です。多くの人は電車でチャイマット村まで向かいます。東側に目を向けると少し面白く、素敵な村があります。村そのものは探検するところが沢山あり、リン・フュオック寺が主な見どころですが、もし時間があれば(または現地のバイクタクシーに乗りたかったら)、事前に食べるものを買い、村のちょうど東にある美しいカオダイ教寺院総本山を探検してください。

チャイマット村で印象的なのは、霊福寺で、モザイク模様の芸術品が陳列されており、細部の装飾にこだわった建築物です。それゆえ、割れた骨董品やグラスの破片には細心の注意を払いセメント加工されています。最初に目に入るのが中央の建物にある中庭の大きな竜です。2万点以上のビールボトルのかけらで造られています。寺の中にある芸術品はさらに手が込んで造られています。色とりどりに並べられたギャラリー、神社と景観の良い場所に向かい左側の階段を登ると、ホールの支柱にはモザイク柄の竜たちが絡み合っています。信仰者により鐘が鳴らされ、深い音がメインホールの雰囲気を一層引き立たせます。

不安定なジグザグの山道の終点に位置しているタイガーフォールズは、この地域で最も人気があるスポットです。滝へと繋がる険しいコンクリートの階段は急な崖になっており、写真スポットとなっています。タイガーフォールズは、ベトナム国民にとっても非常に人気な観光地となっており、静かに1人で回ることは難しいでしょう。滝の底にある大きな岩と水の溜まり場はピクニックに最適の場所です。レストランのそばには巨大な原始狩人と虎の像があり、記念写真を取る為に吠える虎の像の口に登ることができます。

ダラットの街と就職事情

ベトナムで人気の避暑地、ダラットは、高度約1500mにあるランビアン山の激しく曲がりくねった山々の中にあります。その婉曲した道、絵のように美しい教会、豊作の野菜農園や大きな滝、風変わりで面白い植民地の骨董品など様々なものが混在しているダラットはゆっくりするのにぴったりの場所です。旅行で訪れると、ハノイやホーチミンほどに賑やさはなく、涼しい気候なので働いてみたくなるのですが、日本人向けの観光地ではないこともあり日本人が働くとなると難しいです。日本の大手商社などが農業関連の会社を作って進出しているものの、求人がありません。

ベトナム戦争中の暗黙の合意によって、ハノイとサイゴンは、都市の爆撃を受けず半世紀ほど前の景観がそのまま残っています。しかし、ダラットにはあまり期待し過ぎすに訪れる方が良いでしょう。人口約20万人で、ひっそりとした避暑地だからです。1950 年代にはじめてダラットの建築物を見たノーマンルイス氏は、ベトナムで最も「くすんだ小さなリゾート地」を見つけたと言ったそうです。現在は植民地の名残があり、東ヨーロッパ建築が軒を連ね、パゴダ寺院がある場所です。特に国内の観光客が好む白鳥の形をしたペダルボートやカウボーイの格好をした乗馬ガイド付き添いのアクティビティを全面に推しています。

三日月型をしたダラットの中心部は、霊福寺の西側周辺に位置しています。1919年にこの地域にあるカムライ川はグランドラック(素晴らしい川)と名付けたフランス軍によりせき止められました。爆撃を逃れ、曲がった道や階段、石でできた建築物など、フランスの影響を受けた建築物が未だ残っており、赤い屋根瓦の建物がハイバーチュンやファン・チュー・チンと言われる街の間の小丘を覆うほどの軒を連ねています。

ダラット周辺の壮大な風景は、トレッキング、バイクでのドライビング、その他のアクティビティの挑戦にぴったりです。

12 月から5 月の間は現地にあまり見所はなく、地域の湖でボートに乗ったりカヤックのレンタルができるトゥヤンラム湖までケーブルカーに乗るなどして楽しむことができます。もう一つ人気のアクティビティは電車でチャイマット村へ行き、霊福寺の装飾品を見て楽しむことです。

タランティンイエウ、または愛の谷と呼ばれるこの谷は、ダラットの5キロ北に位置しています。バオダイと宮廷の仕え人が行った1972年のダム計画で、水が噴出し谷が浸水してできたのがダティエン湖です。派手なレンタルバイクが走行し屋台が多く立ち並んでおり、谷からは未だに水が湧いています。樹木で生い茂っている愛の谷はかなり見応えがあります。湖周辺でカウボーイ付きのポニー乗馬体験ができるなど、観光客の興味を引くものもあります。

愛の谷の周辺にいるなら、歴史関連の場所より観光地に立ち寄ることをおすすめします。ここではいくつか伝統的な家屋が建てられるまでのプロセスと、絹の刺繍の展示がされています。女性たちが真剣な眼差しで仕上げる代表的な刺繍をじっくりと見ることができます。くぐり抜けるように進むと、静物画、美しい織物や景色画の展示があり、その素晴らしさに目を奪われるでしょう。

瓦付き屋根の高床式の家周辺(ラト村)は、現地の人々で混雑していますが、ダラットの業者にツアーを申し込むことができます。コホーというグループの中でも、ラト族と呼ばれる人々は、耕した米や豆類、野菜類を耕し生計を立てています。村の作りはシンプルですので、ガイドは必須ではありません。

バイクを借り1日出かける場合は、滝のあるラト村とその道沿いにあるアンクロエット湖をめぐることができます。乾季の間、滝水は干上がっていますが、そのエリア周辺はより一目につくところにあり魅力的です。

ラト村の山からランビアン山の標高2169kmの頂点が見えます。徒歩で4時間下ったところにあり、車で入れるのは下部にあるヤシの木の入り口までとなっています。感性豊かな人々は山の形を力説しますが、それにはこのような話があるからです。不運な二人の話の言い伝えで、ランと呼ばれるラト族出身の男性とビアンと呼ばれるチル族出身の女性のカップルが部族の敵対関係により結婚できずにいました。悲嘆にくれたビアンはその後亡くなり、ランビアン山の形は彼女の息を引き取る直前の胸を象徴していると言われています。彼女の死後、罪悪感に苛まれた父親が、全ての対立していた部族グループをコホ族として統一することで部族のいがみ合いをなくそうと動き出しました。

ダラット湖から国道20号線を南下すると、右側にロビンヒルの頂上へと続く交通道路の入り口が見えます。ここはケーブルカーの到着地点でもあります。現在は建設中で景観が損なわれていますが、都市近くで斜面を走りながら素晴らしい景色を眺められます。静かで綺麗な水が広がっているトゥヤンラム湖でボート乗船するのには、体験料が必要です。現地のタクシーサービスではよくこちらに連れてこられることがありますが、ご自身のドライブで滝にたどり着くことも可能です。

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